光秀、丹波攻略の命を受ける
NHKの大河ドラマ『麒麟がくる』関連です。放送には出て来ないし、ここで戦があったわけではないのですが、平城で今でもそれらしい面影が残っているとのことで尋ねてみました。
山城はけっこう石垣や土塁などが残っているのですが、集落にある平城はお寺になっていたり、もうすでに近代の住宅地になってしまっていたりとあまり残っていません。そんな中で、「並河城跡」はここに在ったというのがはっきりと分かるところです。
場所はJR嵯峨野線「並河駅」の近くです。現在「並河」は「なみかわ」と読むし、城主だった「並河家」も「なみかわ」なんですけど、「並河城」はWebでは「なびかじょう」になってるのが多いです。どうなんでしょうかね?
「並河駅」から南東方向に歩いて踏切を越え、どんどんと進みます。旧街道のようで少し道が狭いです。
と、いきなり道の右手が田んぼや広場になるところに出てきます。
そこのところの、道の左手の集落の入り口に「法然寺」というお寺があります。
一般の拝観はしてないようで締まってますね。ちょっと残念。
このお寺の奥(東側)が「並河城跡」です。
お寺を通り越すとすぐに目の前に台地が出現します。ここが目的地です。
周囲から台地の上の方を見ますが、木がぽつぽつと生えているのみ。
でも明確に周りの土地からは1~2m程度高くなっています。
台地の東側は駐車場になっていますね。
その駐車場にポツンと井戸。井戸好きとしては中をのぞかねば気が済みません。お水あるかな...
お、水があるではないですか。コンデジなので手前の網にピントが合ってしまいます...
だ~れもいないし、ちょっと登らしてもらってもいいですかね。
不法侵入ではないですよ。
雑草もなくきれいにされています。
当時の井戸の名残でしょうか。埋まっていますけど、石はしっかりと残っています。
この「並河城」の城主であった「並河掃部介易家(なみかわかもんのすけやすいえ)」は、「明智光秀」の丹波攻略に協力し、第一次黒井城攻めで大敗した時には「光秀」を丹波から坂本へ逃がす道案内をしています。その後、前回紹介した「八上城」攻めにも参加し、本能寺の変の後は山崎の合戦で明智軍として戦っています。
平成2年~5年の発掘調査で、石塁や石列、虎口などが見つかったそうです。
住宅が建っていたりしなくて良かったな~と思いつつ、集落の中を回って当時の痕跡がないか探しながら帰りました。
亀岡には城跡がけっこう残っているんですよ。次回も亀岡の城跡を紹介しましょう。
アクセス
- JR嵯峨野線「並河駅」下車、徒歩10分
コメント
なみかわ と なびか がどこで別れたのかそもそも別物なのかは分かりませんが、自分は なびか と読む方で、且つ易家さんの子孫らしいです。
ルーツとか調べてもよくわかんないし、祖父は全然知らないらしいし父は大学で歴史専攻なのに分かってないし…
とりあえず光秀様慕っておこうっていう安直な思考回路で日々過ごしてます
並河さん、はじめまして。
コメントありがとうございます。
並河さんは「なびか」さんなのですね。私は今まで「並河さん」は「なみかわ」さんばかりだったので、
初「なびかさん」です。これからもどうぞよろしくお願いいたします。
で、僭越ながら「並河」という苗字をちょっと調べさせていただきました。
といっても、調べる手立てをあまり知らないのでWebでヒットした「日本姓氏語源辞典」というサイトなんですけど、
『京都府亀岡市大井町並河発祥。室町時代に「并河」の表記で記録のある地名。』
とありました。もしかすると、並河さんのご先祖さんは「並河氏」と御縁のあった方かもしれませんね。
それと、お名前ではなくて、地名の「並河(亀岡市大井町並河)」ですが、地元の人が言うには
『大堰(おおい)川と犬飼(いぬかい)川が並んで流れているから並河とつけられたと昔から伝わっている。』
とおっしゃる方もいらっしゃいました。これは何がしかの記録があるわけでもなく、ただ聞きかじった話なので
信憑性のほどは低いかもしれません。
実は、私もとある戦国武将と同じ姓で、何がしかの縁があったようなんですけど、
そのことを良く知っていたじーさんがなんにも言わずに亡くなったので全然わかりません。
定年後はゆっくりと自分のルーツ探しでもしようかと思っています。
Jun@Kyoto