平安宮内裏承香殿跡・弘徽殿跡・蔵人町屋跡・出世稲荷跡

今回も色々巡ります 平安宮跡探索行

さて、平安宮の石碑や案内板を巡ってきましたが、あまり同じような記事ばかり書いていると私の自己満足、読む方からすると飽きてくることでしょうから、今回で一旦は終わりとします。

で、前回は平安宮の東端の「建春門」まで行きましたので、折り返して「新出水通り」を西に向かいましょう。

平安宮内裏承香殿跡 No2

「新出水通り」の浄福寺まで戻ってきましたよ。よく見てみると...

平安宮内裏承香殿跡 No3

久々に「仁丹」発見。家の2階に貼り付けられています。

平安宮内裏承香殿跡 No4

少し歩くと、すぐにこんな長屋風の建物に出くわします。

平安宮内裏承香殿跡 No5

「承香殿(じょうきょうでん)東対」とありますね。

平安宮内裏承香殿跡 No6

ここが「平安宮内裏承香殿跡」です。現在は町屋を改修したゲストハウスになってます。

しかし、なんで「じょうきょうでん」って読ますのかな? どう見ても「しょうこうでん」でしかないんですけど...

平安宮内裏承香殿跡 No7

「平安宮内裏承香殿跡」の案内板です。

平安宮内裏承香殿跡

内裏の後宮七殿五舎の一つ。仁寿殿の北にあり、東西七間、南北二間の母屋に庇がめぐる。九世紀初頭の嵯峨天皇のころに創建された。中央の馬道により東西にわかれ、東庇には天皇の書物を保管する内御書所があり、一〇世紀初頭の醍醐天皇の命による最初の勅撰集の『古今和歌集』が紀貫之らによって編纂された。また内宴や東遊なども催された。
歴史上、承香殿女御は数人いるが、なかでも村上天皇女御の徽子女王(醍醐天皇孫、斎宮女御)は歌人として知られ、『斎宮女御集』がある。彼女は『源氏物語』に登場する六条御息所のモデルと言われている。『源氏物語』では朱雀院妃の承香殿女御が今上帝を生んでいる。

とあるように、ここで「古今和歌集」が編纂されたのですよ。内縁なども催されていたとのことで、当時の文化の中心でもあったわけです。

そう思えば、ゲストハウスとしてすごいところに宿泊できるんですね。

平安宮内裏承香殿跡 No8

けっこう長い長屋になってます。昔の京都はこんな感じの長屋がたくさん連なってました。多分大正か昭和時代の遺物ですね。

平安宮内裏弘徽殿跡 No1

で、その長屋の西端にはもう一つの石碑が。

平安宮内裏弘徽殿跡 No2

「平安宮内裏弘徽殿跡」の石碑です。これ読めますか? 「こきでん」と読むそうです。

平安宮内裏弘徽殿跡 No3

「平安宮内裏弘徽殿跡」の案内板です。

平安宮内裏弘徽殿跡

内裏の後宮七殿五舎の一つ。当初は北の登華殿とともに女御・更衣の共同居住区の西町にすぎなかったが、後宮の中心であった常寧殿の機能を引き継ぎ、清和・陽成天皇時代には一時的に天皇の居所にもなった。南北七間、東西二間の母屋の中央東西に馬道が通り、その北に塗籠があった。
後宮の中でも重要な殿舎であり、『源氏物語』では朱雀院の母の弘徽殿女御が住み、女御は、光源氏の母の桐壷更衣が帝の寵愛を受けているのを恨んで執拗な嫌がらせをして死に至らしめた。後に女御の妹の朧月夜がここに住み、光源氏と塗籠で結ばれたことが源氏の須磨隠棲の原因となった。

「宇多天皇」のころから「清涼殿」が常御所となり,「弘徽殿」は「清涼殿」に最も近い建物として重要視され後宮の中心的建物となりました。また西側にある「飛香舎(藤壺)」とともに「源氏物語」の重要な舞台でもあります。

さて「源氏物語」の中では...

女御(にょうご)は、天皇の後宮の身位の一つで、天皇の寝所に侍した女性を指します。「源氏物語」に登場するのは「弘徽殿女御」。「弘徽殿女御」は桐壺帝に入内し、後の朱雀帝を産んだ女性です。桐壺帝の寵愛を桐壺更衣(光源氏の母)に奪われたことで、桐壺更衣に執拗な嫌がらせをします。そして更衣の死後も光源氏を激しく憎みました。ところが、東宮の妃にと希望していた「葵の上」と妹の「朧月夜」の二人を源氏に奪われてしまいます。妹の「朧月夜」もここに住み、光源氏と結ばれます。「弘徽殿女御」の怒りをかった源氏は須磨へ流されることになりました。

と、まぁ、激しい女性ですが、光源氏の方が上手ですね。とんでもなくプレイボーイ(ふる~)というか、好きものというか...次から次へととってもうらやましい次第ですね。

そんな目で「源氏物語」を見るなんて不潔!って言われそうですけど、実際のところ次々と契りを結んでますからねぇ。紫式部も紫式部ですが、当時の至上の恋愛観というのはこういうものだったんでしょうね。

さて、だんだんと日が傾いてきたので先を急ぎましょう。

で、今回の平安宮関連では最後に「蔵人町屋跡」を訪ねましょう。浄福寺通りを下ってきて最初にウロウロした「下立売」まで来ました。「下立売通り」を西に向かいます。

平安宮内裏蔵人町屋跡 No2

例の「紫宸殿跡」の酒屋さんを超えると...

平安宮内裏蔵人町屋跡 No3

上の画像では一瞬わかりませんが...

平安宮内裏蔵人町屋跡 No4

こんなところに、こんな石碑があるんです。

平安宮内裏蔵人町屋跡 No5

「蔵人町屋跡」。今までの石碑と全然違うので一瞬わかりませんでした。お店の装飾においてるのかと思いましたよ。

平安宮内裏蔵人町屋跡 No6

「平安宮内裏蔵人町屋跡」の案内板です。

平安宮内裏蔵人町屋跡

清涼殿の西南に置かれた蔵人所とその関連施設。建物の北端に蔵人頭、南面に五位蔵人、西面に六位蔵人の宿所が置かれた(『捨芥抄』)。蔵人とは元来、皇室の蔵である納殿を管理する役人であったが、嵯峨天皇は即位直後に起きた薬子の変に際して、天皇側の機密が漏れるのを防ぐために、腹心の藤原冬嗣らを蔵人頭に任じて蔵人所を設置し、天皇の側近として詔勅の伝宣、殿上での事務や天皇の私生活に亙っての重要職務に関わらせた。頭には弁官兼務の頭弁と近衛府の中将兼務の頭中将がおり、重責は頭弁であった。光源氏の正妻、葵上の兄は頭中将である。
一九八七年の発掘調査では蔵人町屋の敷地内東側で、基壇状の高まりとそれに伴う雨落溝跡が検出されている。

蔵人はもともと天皇の家政を取り仕切る役職だったのですが、天皇と上皇の対立(薬子の変)から天皇の秘書として事務を行い、徐々に勢力を伸ばし天皇の警護に当たるまでになります。「蔵人町屋」は蔵人が宿所として使用した舎屋です。

平安宮内裏蔵人町屋跡 No7

で、そこに建っているのが上の画像のマンション。やりますなぁ。

よう分かるといえば、そうなんですけど、あまりにストレートというか...

ということで、色々な平安宮の施設跡の石碑や案内板を巡ってきました。もう夕方なので今日はこの辺にしておきましょう。

最後に...ちょっとおまけ

そんなこんなで、JR二条駅から嵯峨野線で帰ろうと思って千本通りを下って来たのですが...

出世稲荷跡 No1

「千本丸太町」の交差点に平安宮の案内板があるんですけど、ちらちら見てると、まだ「出世稲荷」が書かれているんですよね。残念ながらもうすでにここになないんですよね、「出世稲荷」...

「出世稲荷」の跡、どうなってるんやろ。

と興味津々で歩いて行きます。

出世稲荷跡 No2

千本通りから見た「旧二条通り」の西方向です。JR嵯峨野線の高架が見えますね。この通りも細い通りなんですけど、その反対側の東方向が...

出世稲荷跡 No3

完全に路地。車入れません。

ま、そんあこたぁどうでもいいのですが、「出世稲荷」の跡に来ましたよ。

出世稲荷跡 No4

道の反対側からの写真。昔ここに「出世稲荷神社」という神社がありました。痕跡がわかりますか?

出世稲荷跡 No5

これ。

出世稲荷跡 No6

「出世稲荷跡」の石碑。現在はこれしか残っていません。

「出世稲荷神社」は大原に遷移してしまったんですよ。色々な理由があると思われますが、この地では金銭的に存続が危ぶまれたのでしょう。

出世稲荷跡 No7

昔はバス停も「出世稲荷前」だったんですけども、現在は「千本旧二条」になっています。

出世稲荷跡 No8

市バスの駅名もこの通り。大学時代はここを市バスで通学していたので車窓から見ていましたよ「出世稲荷」。もともとは天正十五年(1587年)に太閤秀吉が聚楽第の中に創建した稲荷神社であったそうです。後陽成天皇が行幸に際し、立身出世を遂げた秀吉に因んで「出世稲荷」の号を授けたのだそうです。

わしは車窓から見ていただけで、当時お詣りしなかったから出世と縁がない人生なんかな...

ま、それも みなさんからしたら どうでもいいことですわな。

出世稲荷跡 No9

お。お月さんが出てますよ。

出世とは全然縁がないし、ましてや光源氏なんかとは比べようがない底辺生活ですが、ま、毎日それなりにのらりくらりでもこの年まで何とかやって来れました。そう思うと日本てほんまに優しい国ですわ。これからも写真撮りつつ、のらりくらりが続くことでしょう。

次はどこ行くべぇ...

アクセス

  • 京都市バス「千本出水」下車、徒歩5分

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