必勝天満宮
今回は久々に強烈なパワースポットをご紹介します。
キャッチフレーズ(というか神額)が「天下無敵 必勝利運」と、まぁなんとも勇ましい文句で書かれているんです。これはもう、完全勝利間違いなし。
それもそのはず、元寇のときに「神風」を起こし、モンゴルの大群を海の藻屑と変えた畏れ多い神社です。
その名も「霊光殿天満宮」。
なんかもう、名前だけで恐れおののいてしまいますね。
では京都市上京区にある「霊光殿天満宮」に行ってみましょう。
私は「新町通り」を南から北に向かって上がってきました。「新町通り」の「武者小路」との交差点は少しいびつな形になってます。
「新町通り」が斜めになっているので、交差点はロータリーでもあるかのような変な形です。横断歩道があるところが交差点ですよ。
さて、そんな「武者小路新町」の交差点を上がると、すぐに「霊光殿天満宮」が見えてきます。
道の西側にあります。
「村社 霊光殿天満宮」のと刻まれた社号石標です。
こちらは「霊光殿天満宮」のご由緒が書かれた駒札です。
扁額「天下無敵必勝利運」ですが、露出が全然ダメダメですね。大失敗。
境内に進みます。
正面に拝殿があります。
手水舎です。
拝殿の後ろに本殿があります。
おお、まぶしい。必勝利運のパワーが感じられます。
本殿の神額は少し古い感じで風格があります。
御祭神は天満宮ですので当然のこととして「菅原道真公」ですが、「徳川家康」も祀られています。
当初は、寛仁2年(1018年)、菅原道真の子孫、6代目の「菅原義郷」が、勅命により菅公が昌泰4年(901年)の左遷途中に立ち寄ったという河内国若江郡に建立されました。
社名の「霊光殿」は、菅公太宰府左遷の途中で、天から一条の光とともに、天一神「帝釈天」が降臨したとの伝承からつけられ、そして降臨したという当地に遷移されました。
鎌倉時代には元寇(蒙古襲来1274、1281)があったのですが、第91代・後宇多天皇が当社で夷賊退治の祈祷を行うと「神風」が吹き、元の船がことごとく沈んでしまったので『天下無敵必勝利運』の額を天皇より賜りました。
これはものすごいパワーですね。2度にわたり元の大軍を退けたということで、天皇以下朝廷や武家は大変喜んだことでしょう。
室町時代、応仁元年(1467年)の「応仁の乱」で社領を失ってしまいます。そして御神体を「東寺」に移しています。「若江家」が代々祠官として奉仕したのですが、その「若江家」も途絶えてしまいます。
元亀元年(1570年)「徳川家康」は、「霊光殿天満宮」において天下太平の祈願をしています。天下統一を成し遂げた家康は元和2年(1616年)「若江家」の再興に尽力し、寛永11年(1634年)「若江家(上京区塔之段薮ノ下町:相国寺の東側)」に社殿が移されました。
家康の死後の寛永13年(1636年)、「徳川家光」が「仙洞御所」にあった家康の像を当社に移し、ご祭神として合祀しました。
宝暦11年(1761年)、社殿は現在の地に移されています。そして、明治5年(1872年)に近衛家の旧鎮守社を移築し現在の社殿としています。
狛犬ですね。
こちらは狛獅子ですね。
天満宮ですので「臥牛」です。
御神体がうかがえます。
奉納された絵馬も歴史を感じるものですね。
例によりおみくじの運勢ですかね。
だいぶんと消えかかっています。
こちらはけっこう新しいです。
明治35年(1902年)の「霊光殿菅公千年祭記念碑」の石碑です。この字は文人画家の「富岡鉄斎」の字です。
こちらはなんでしょうか。ちょっとわかりません。
横には御神木があるのですが、何の木なんでしょうか。
そういえば「上御霊神社」でも時計をはめ込んだ石柱がありましたね。
末社の「五所稲荷大明神」です。
「菅原義郷」らをお祀りしています。
お稲荷さんなので当然狐です。
粋な狐さんです。
こちらも古そうですね。「五所稲荷大明神」については、解説が見当たりません。
菅公の天満宮ですから、梅の御紋です。
そうそう、裏詣りもしましょう。
境内の隅の方に井戸があります。現在は使われていないようですね。
ちょっと何の木かわかりませんが、枝からするとイチョウでしょうかね。こちらもとても大きな木です。
そろそろ、ご神燈がともる時間になりました。
ばっちり写っていないのが残念ですが、必勝を祈願して帰りましょう。
武運の信仰篤い「霊光殿天満宮」です。ここ一発の勝負時にはお詣りしていただいて、ご利益を授かってください。必ずや勝利を手に入れられることでしょう。
アクセス
- 京都市バス「今出川新町」下車、徒歩2分