この夏、一番古代を感じられた場所
亀岡市千歳町国分には浄土宗の寺院である「丹波国分寺(たんばこくぶんじ)」があります。このお寺は奈良時代の天平13年(741年)第45代「聖武天皇」の詔により日本各地に「国情不安鎮撫」のため建立された国分寺のうち「丹波国国分僧寺」の後継寺院です。当時、正式には「金光明四天王護国之寺」と呼ばれていました。
「国分寺」に建立された「七重塔」には「国情不安鎮撫」のために「金光明最勝王経」「妙法蓮華経」の一部を写し、天皇真筆の「金字金光明最勝王経」が納められました。
奈良時代の「国分寺」の創建については、文献がないので詳しいことは分りませんが、発掘調査からは奈良時代の末期と考えられています。当時「国分寺」の付近は古代「丹波国」の中心地で、この近くに国府もあったと考えられています。現在も「丹波国一宮出雲大神宮」や「千歳車塚古墳」などが残っていてロマンを買い建てられるところです。しかし平安時代初期から中期頃、七重塔、金堂が廃絶してしまいます。
また「聖武天皇」の詔では「国分寺」の他に「国分尼寺」が建立されています。当時の正式名称は「法華滅罪寺(法華寺)」といいました。丹波国の「国分尼寺」は「国分寺」の西450mほどのところにある、「御上人林(おしょうにんばやし)廃寺跡」から遺構が見つかっています。この「国分尼寺」は平安時代中期に廃絶し、その後再建されることはありませんでした。
発掘調査から平安時代末期に「国分寺」が再建されたことがわかりました。10世紀以降、律令制の衰微とともに国家の財政的な庇護を失い、鎌倉時代後期に「金堂」が焼失したこともあり、「国分寺」は中世(鎌倉時代~室町時代)には荒廃しました。
室町時代の天正年間には「明智光秀」の亀山城築城の兵火により焼失してしまいます。
記録によると、江戸時代の安永3年(1774年)に「護勇比丘」によって現在の本堂、鐘楼、山門の再建が始まり、天明5年(1785年)に再建が終わっています。しかし「国分寺」には元禄14年(1701年)銘の「鰐口(わにぐち)」が伝わることから、それ以前には復興されていたと考えられています。
というのが「丹波国分寺」の歴史であり、現存する建築物は天明年間以前に建てられたものです。昭和3年(1928年)「丹波国分寺跡 附八幡神社跡」として国の史跡に指定されています。
昭和57年(1982年)から始まる10次の発掘調査により、金堂・塔七重塔・中門・僧房・鐘楼等の遺構と、鎮守社の八幡神社と見られる遺構が確認されています。また「国分寺」の東の山にある付近の「愛宕神社(亀岡市千歳町国分)」の境内社にある八幡宮神社は、天保6年(1835年)に国分寺鎮守社を遷座したものと伝えられています。また亀岡市の蔵垣内遺跡(くらがちいせき)からは、子院と見られる遺構が見つかっています。
現在の「国分寺」の山号は「護国山」といい「専念寺」が管理しています。
天気がいいのでスクーターに乗っていきました。
「国分寺」の東側に新しくできたバイパス道から、田んぼの真ん中の細い道を入って近づきます。大きな木がたくさん立っています。電柱の高さと比べると、けっこうな大きさがることがわかると思います。
心地い風が吹くなか、辺りを見回しても野原だけで、人の気配がありません。雲だけがゆっくりと流れていきます。
「国分寺」に近づくと、原野の真ん中になにやら看板が立っています。何だろうなと見に行くと、看板の前の盛り上がりが「回廊跡」だとのこと。
たしかに盛り上がってますね。造成した時の土の残りかと思いましたよ。
「南面回廊跡」とあります。
こちらの方がよくわかりますね。でも、こんなのが何百年も残ってたんですかね。あとから作り直したのでしょうか。
「国分寺」にもう少し近づくと「附(つけたり)八幡神社跡」と案内板があります。
こちらは「跡」だけで、よくわかりません。このあたりにあったのでしょう。
さて「国分寺」の山門に来ました。
山門の横には駒札があります。「イヌマキ」の木ですね。
何せ、木はたくさんあります。後からいっぱい出てきます。
この山門は創建当時のものではなく江戸時代、 安永3年(1774年)再建の物だそうです。
「国分寺」の説明書きです。
山門前には石票がいっぱいありますよ。これが一番古そうかなぁ。
これはけっこう新しそうですね。
こちらは立派です。
山門には仁王様(金剛力士像)が守ってます。
なかなか躍動感のある仁王様です。
誰もいません。山門の前に立つと不思議な感覚がして、向こう側が別世界のように感じます。景色はつながっているのですが、空間が違うような気がします。
境内に入ると、左手には鐘楼と多くの石仏や仏塔が目に入ります。
この向こう側は原っぱになっているのですが、「丹波国分寺」の時には「金堂」が建っていました。奈良時代に建てられた「金堂」は一度失われ、平安時代に再建されたのですが、鎌倉時代後期に焼失して以降は再建されていません。
この鐘楼も江戸時代に再建されたものです。
こちらが「本堂」です。
「本堂」には平安時代後期の藤原様式と呼ばれる繊細優美な「木造薬師如来坐像(重要文化財)」を安置しているそうです。残念ながら閉まっているので見られませんね。
本堂の屋根です。瓦がまぁすごい。
なかなかこのあたりでは見られないような瓦です。
こんなの良く作りましたね。
「本堂」の「扁額」です。
とっても時代を感じさせるやれ具合です。この自然な感じが歴史を感じさせます。
「本堂」前には立派な「香炉」があります。いつごろのものかは分かりませんが、この場に鎮座して、変わらぬ風景を見ながら、毎日時間の流れを感じているんでしょうね。
本堂の右手には手水舎があります。井戸は枯れています。
境内の木々
「丹波国分寺跡」には背の高い立派な木がたくさん生えています。
「カゴノキ」です。このあたりではなかなか見られない木で亀岡市指定天然記念物となっています。クスノキ科なのですが、幹に小鹿に見られるようなまだら模様があることから「鹿子(かご)の木」と呼ばれます。
大きな木ですね。
そのお隣は「オハツキイチョウ(お葉つき銀杏)」と呼ばれるイチョウの雌株です。葉の上か葉上に葯(やく:花粉の入った袋状のもの)を付けるイチョウの変種で全国に20本ほどしかないそうです。
「天上の木10選」に選ばれています。
「京都の自然二百選」にも選ばれています。
高さが22mもある巨木です。紅葉時に見てみたいですね。
こちらは「ムクノキ」です。
この「ムクノキ」も巨木です。とっても神秘的な森の様相を呈しています。
史跡としての「丹波国分寺跡」
境内に入ると別世界を感じると書きましたが、「国分寺跡」の周りには野原が広がり、その周りも田んぼで、人家から離れています。
木々の間を歩くと、足元には昔の遺構の瓦などが落ちています。
「丹波国分寺」の時代には「七重の塔」があったことを示す礎石です。礎石17個が完存しており、当の高さは50mほどあったと推測されています。
竹や新緑がきれいです。
「金堂」があった場所は草原になってます。
「山門」から見た外界。何かあちら側が現実世界で、こちら側が空想世界みたいな感覚にとらわれます。境内側に立っていると、自分ただ一人がここにいて、亀岡盆地には自分しかいないような不思議な感覚になります。山門の中は時間が止まってしまって、古代の丹波にいるようです。
護勇比丘(ごゆうびく)墓所
江戸時代には僧であった「護勇比丘(ごゆうびく)」が尽力して「国分寺」を再興しています。
その「護勇比丘」の墓が、史跡の南にあります。
山門の真ん前、ちょうど南方向です。山門を出て真っすぐ歩くと到着します。
安永3年(1774年)に「護勇比丘」によって現在の本堂、鐘楼、山門が再建されました。
「護勇比丘」について書かれた説明書きです。「護勇比丘」は宝永6年(1709年)に八田笹尾村(現:京丹波町)の「一谷家」に生まれました。庄屋も務めたのですが、後に出家して「護勇」という僧名を名乗ります。諸国を行脚し浄財を集め、「国分寺再興」という大願成就を成し遂げました。
「護勇比丘」の五輪塔です。天明7年(1788年)「護勇比丘」はこの五輪の塔の場所で「即身成仏」の行を行い入滅しています。
石仏が残されています。江戸時代のものでしょうか。自分の思いを成し遂げ、最後には成仏できたというのはとっても幸せな一生なのでしょうね。
「護勇比丘墓所」から振り返ると、「国分寺跡」の木々が心地いい風に揺られています。
こんもりとした森の中には異空間が扉を開けて待っています。緑のきれいな時期に訪れると何ともすがすがしい気持ちになれる場所ですよ。私はこの夏、一番古代のロマンを感じることができた場所です。
アクセス
- 京都縦貫道「千代川IC」より車で約20分