ほとばしる大空へのあこがれ
今回は「小林君之碑」を紹介します。
ちなみに「こばやしくん」ではなくて「おばやしくん」です。
現代では「~君」と言えば、少し軽い呼び方のように聞こえますが、戦前までは、立派な碑に「君」とついていれば、偉業をなした若者として尊敬の念を表されていることが多いです。今回の「小林君」も、若くして偉業を成し遂げ命を失った青年です。
「小林祝之助(おばやししゅくのすけ)」は京都の「哲学の道」にある「大豊(おおとよ)神社」の宮司の長男として生まれました。「清和中学校(後の立命館中学校)」に入学し、「立命館大学」に進んでいます。
大正2年(1913年)5月、深草(伏見区)の練兵場に初めて飛行機が飛来しました。飛行家の「武石浩玻」による京阪都市連絡飛行であったのですが、練兵場近隣で墜落し、「武石浩玻」は死亡します。これを目撃した「小林祝之助」は衝撃を受けたのですが、これをきっかけに空を飛ぶことにあこがれるようになります。
この思いは日に日に増していき、大正4年(1915年)6月、第一次大戦さなかのフランスに渡ります。1年ほどをフランス語学習に費やし、大正5年(1916年)6月「フランス陸軍航空学校」に入学します。翌大正6年(1917年)3月課程を終了し、偵察機のパイロットになりました。続いて大正7年(1918年)2月には戦闘機隊に志願、5月にスパッド機のパイロットになっています。しかし2週間ほど後の6月7日に西部戦線クーブルにてドイツ軍機と戦い戦死しました。
欧州での第1次大戦の戦況は日本においてもとても注目されていたのですが、その中でも小林君の件は新聞などでも大々的に報道されたようです。同年には「南座」で活動写真による「小林祝之助戦死実況講演」が行われるなど、大衆の興味を大きく引いてたようです。
「小林君之碑」があるのは、京都市左京区の真如堂です。またまた私の職場の近所です。すんません。先日も「殺生石」を紹介したところですね。
真如堂は「東参道」から上がると早いです。坂が急ですけど...
京都市バスの「真如堂前」で下車して、急な坂道を上がり、「東参道」の階段まで来ました。
「東参道」の階段を上がると、本堂の裏の庭に出るのですが、「小林君之碑」は本堂の南側にあります。本堂の裏を通って南の方に出ます。
見えてきましたよ。
「小林君之碑」です。
駒札が建てられています。
碑の本体はとても立派な石でできていますね。
刻まれている文章は読めなくもないのですが、難しい漢字と視力の低下で、解読に時間がかかります。
小林君之碑
元帥川村景明閣下題額
祝之助君は錦林学校出身の士なり剛毅にして果決愛国心に富む大正四年世界大戦正に酣なるのとき雄志を懐きて渡欧し翌年五月義勇兵として仏国航空隊に入り次て従軍せしか屡々重要任務を果し全軍の賞讃を博したりと云ふ
大正七年六月七日クーヴルの上空に独機と戦ひ奮闘中機体より火を発し壮烈無比の最期を遂く後ち仏国大統領はクロバドーゲル勲章並感状を厳父忠一君に贈り以て君か赫々の武勲を表彰したり蓋し君の戦死は日本国民の忠誠勇武を欧洲の天地に宣示すると共に日仏両国の親善に資するところ甚大なりしなり同窓隣閭感慨措く能はす茲に碑を建て其の偉績を録す
大正十四年五月 陸軍少将杉村勇次郎選文並書
私は何も戦争を賛美する気はありません。当時の技術の最先端であった飛行機で大空に舞い上がることに魅せられ、一人異国の地にわたり、祖国日本のためではなく、フランスのために戦って死んでいった、まさに武士の生き方を実践したような人だと思います。江戸末期に日本の行く末を憂い、脱藩しても自分の道を進んでいった志士たちと同じ気概を持っていたのではないでしょうか。それが戦いの中でしか実現できなかったのは不幸なことですが、悔いを残すことはなかったでしょう。
きらびやかな観光名所を巡るのも楽しいものですが、現代に残された時代の遺物にまつわるいわれをたどるのもまた楽しいものです。
アクセス
- 京都市バス「真如堂前」下車、徒歩10分