神明神社 文子天満宮 その4

オフィス街の裏側

今回は「神明(しんめい)神社」を紹介します。四条烏丸という京都のオフィス街の中心から5分もかからないところに鎮座するこじんまりとした神社です。

「神明神社」は、「綾小路通り」に面する神社で、白い色の鳥居が目印です。かつては社頭に榎(えのき)の大木があって、「榎神明」とも呼ばれていました。「厄除け」、「火除け」のご利益が信仰を集めています。

しかしそれだけではないんですよ。

神明神社 No2

「綾小路通り」です。一方通行の細い道です。その家並みの間に「神明神社」があります。

神明神社 No3

家と家の間。で、ごみの集積場所になってるんですね。何と罰当たりと思われる方もいらっしゃるでしょうけど、「神明神社」はこの地域の「神明町」が管理されているということで、収集後はきれいに掃除されています。狭い都市部では場所がないので致し方ないのでしょう。

神明神社 No4

「神明神社」の駒札です。「神明神社」は「近衛天皇」がしばしば皇居として利用した関白「藤原忠通(ただみち)」の屋敷があったところで、「四条内裏」とか「四条東洞院内裏」とか呼ばれました。「藤原忠通」は養女「呈子(20歳)」を近衛天皇に入内させ、立后、中宮としています。

創祀の詳しいことは不明なのですが、この忠通の屋敷の中にあった邸内社が「神明神社」として存続しています。「存続しています。」と簡単に書いてますが、平安時代から続いているので、「近衛天皇」の時代からすると、900年弱存続していることになります。

900年...なぜ、こんな長きにわたってこの神社は存続してきたのでしょうか。その理由のひとつが「鵺(ぬえ)」にまつわる伝説ではないでしょうか。

この伝説によると、平安京に夜な夜な出没した怪鳥(?)「鵺」が「近衛天皇」にとりつくのですが、「源頼政(よりまさ)」と家来の「猪早太(いの はやた)」が見事退治します。この、なんとも心躍る冒険活劇のような「鵺」伝説のおかげで「神明神社」も長きにわたって信仰が続いているのではないでしょうか。

お暇な方は「鵺」伝説については、下のBlogを読んでみてください。

「鵺の鳴く夜は恐ろしい…」 私にとってはとっても懐かしいフレーズです。横溝正史の最後の長編小説となった「悪霊島」の映画のキャッチコピーです...

「鵺」がどこから出没したか? にも諸説があります。

 朝廷と藤原氏 平安時代、藤原氏出身の女子で皇妃、母后となった人が居住する慣わしとなっていた「東三条院」というところがありました。 ...
台風の受難続き... 1200年の都、京都ですが、ここしばらくは台風や豪雨の影響で災難続きです。特に古くからの神社仏閣に多くの被害が発生し...

「源頼政」のお墓も訪ねています。

頼政といえば鵺 京都府亀岡市にある「頼政塚」です。「頼政塚」は名前の通り、平安末期に宇治の平等院で非業の死を遂げた多田源氏「源頼政(みなも...

「近衛天皇」はわずか3歳で即位し政争の具にされ、病弱であって17歳で早世したという悲劇的な人生でした。このような境遇から色々な逸話や伝説が生まれたのでしょう。

「神明神社」は藤原時代末期(平安時代中後期)、天台宗の社僧により管理されることとなり、「護国山立願寺円光院」と称しました。これは近年まで続き、明治元年(1868年)「神仏分離令」後の廃仏毀釈により廃寺となり、現在の「神明神社」だけが残されました。

神明神社 No5

さて、入り口の左側に古い石柱が立ってます。そしてその石柱には、はっきりと「天満宮」の文字が刻まれています。ワクワクします。

神明神社 No6

そして、これですよ。私がここを訪れたかった第1の理由。「文子天満宮」が合祀されているのです。「文子」とは、当然「菅原道真公」の乳母であった「多治比文子(たじひのあやこ)」に他なりません。現在の「北野天満宮」はこの「多治比文子」によって造立されたと言っても過言ではありません。

京都市内には「文子天満宮」がたくさんあります。私が紹介する「文子天満宮」では4番目に当たります。

 文子天満宮の変遷 菅原道真公に関する史跡はたくさんありますが、その一つである文子天満宮です。 文子天満宮に関する史跡もいろいろあっ...
 数々ある文子天満宮 菅原道真公の乳母を務めた多治比文子(たじひのあやこ)にまつわる、「文子天満宮」ですが、京都市内にいくつもの神社があり...
 文子天満宮はたくさんある 文子天満宮については、ほかにも書いています。 それで、今回は岡崎にある文子天満宮を訪問し...

神明神社 No7

入り口の右側には「神明神社」の石柱が建っています。こちらはまだ新しいですね。

神明神社 No8

では中に入りましょう。京都特有の、入り口が狭く、中に長く続いている敷地です。

神明神社 No9

「手水鉢」です。普通の水道ですね。

神明神社 No12

本殿の前まで来ました。

神明神社 No10

謡曲「鵺」の駒札です。

「謡曲」では「鵺」は「源頼政」に討ち取られた後に亡霊となり、僧侶に供養されて冥途に旅立ちます。

神明神社 No11

とまぁ日本において「鵺」っていうのは、伝説の題材としは、もってこいなのでしょうね。

神明神社 No13

本殿です。きれいに手入れが行き届き、こまめに掃除がなされている様子がうかがえます。

神明神社 No14

ご祭神は「天照皇大神(あまてらすおおみかみ)」、「豊受神(とようけのかみ)」、「多治比綾子(文子天満宮)」となってます。

神明神社 No16

「鵺」を射落とした2本の矢じり(写真)です。

神明神社 No15

凝った作りになってますね。実物が見てみたいですよ。

神明神社 No17

「源三位頼政公鵺退治之図」。「鵺」は「頭が猿、胴体は狸、尾は蛇、手足は虎」と『平家物語』には記されています。

神明神社 No18

本殿を横から撮りました。柱などは、本当にしっかりとした造りになっていますね。

神明神社 No19

末社、摂社が祀られています。

神明神社 No20

「北野天満宮」が見えますね。「源頼政」ゆかりの神社なので、「石清水八幡宮」も鎮座されています。

神明神社 No21

本殿の裏側は「社庫」のようになってます。

神明神社 No22

境内から見た「綾小路通り」です。こちら側にいると、別世界のように見えますね。

神明神社 No23

何と刻まれているのでしょうか。時間がなかったのであまり詳しく判読している時間がありませんでした。残念。

神明神社 No24

「豊園(ほうえん)小学校(現在の洛央小学校)」内に祀られている「文子天満宮」のご祭神が戦後、合祀されました。京都市内も土地の整理や、都市構造の変化による土地利用用途の変換などで、遷移や合祀を余儀なくされている神社がたくさんあります。神社を維持していくためには、どうしても多くのお金が必要になってきます。ここ「神明神社」が「神明町」によって維持管理されているということですが、並々ならぬ努力のたまものだと思います。管理されている町内の方々には大変なご苦労だと思いますが、由緒ある神社を何とか後世に伝えていってほしいと思います。

今回、「鵺」退治の伝説の神社を訪れたことと、「文子天満宮」にお詣りで来たことで私は大満足です。

アクセス

  • 京都市バス「四条高倉」下車、徒歩5分

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