数々ある文子天満宮
菅原道真公の乳母を務めた多治比文子(たじひのあやこ)にまつわる、「文子天満宮」ですが、京都市内にいくつもの神社があります。
以前、上京区にある「舊址、末社」を訪ねました。
https://www.kyoto-inf.com/guide-kyoto/2017/07/17/posted-ayakotenmangu1/
今回は、下京区にある多治比文子が住んでいた自宅から興った「文子天満宮」を訪ねます。
天神信仰
天神信仰は、天神(雷神)に対する信仰のことで、特に菅原道真公を「天神様」として畏怖・祈願の対象とする神道の信仰のことです。
なんで、菅公が天神(雷神)様なのかは、
https://www.kyoto-inf.com/guide-kyoto/2017/06/29/posted-kuwabara/
をご覧ください。
菅公の死後、すぐに、臣下の味酒安行(うまさけ やすゆき)が菅公を天満大自在天神(てんまんだいじざいてんじん)という神格で祀っています。
その後、疫病がはやり、日照りが続き、また醍醐天皇の皇子が相次いで病死します。さらには清涼殿落雷事件が起こります。これらがすべて菅公の祟りだと恐れた朝廷は、菅公の罪を赦すと共に贈位を行います。
清涼殿落雷事件から菅公の怨霊は天神(雷神)と結びつけられます。元々京都の北野の地には平安京の西北・天門の鎮めとして火雷神という地主神が祀られており、朝廷はここに北野天満宮を建立して菅公の祟りを鎮めようとしました。菅公が亡くなった太宰府にも墓所の地に安楽寺天満宮、のちの太宰府天満宮が建立されました。また、天暦3年(949年)には難波京の西北の鎮めとされた大将軍社前に一夜にして七本の松が生えたという話により、村上天皇の勅命により大阪天満宮(天満天神)が建立されました。寛和3年(987年)には「北野天満宮大神」の神号が下されます。また、天満大自在天神のほかにも、日本太政威徳天(にほんだじょういとくてん)、実道権現(じつどうごんげん)などとも呼ばれ、恐ろしい怨霊として恐れられました。
とんでもないことが次々と起こり、よっぽど恐ろしかったんでしょう。
さて、多治比文子は天神となった菅公に「われを右近の馬場に祀れ」と、現在の北野天満宮の地に祀るように託宣を受けました。しかし文子は貧しく、社殿を建立することができずに右京七条二坊の自宅に小さな祠を建てて祀っていました。このように北野天満宮が祀られるきっかけをつくったのが、多治比文子であり文子天満宮が「北野天満宮の前身神社」と言われる由縁です。
また、文子天満宮は、菅公を「天神」としてわが国で最初にお祀りした神社であることから「天神信仰発祥の神社」と位置づけられます。
文子天満宮 下京区
暑い時期ですので、午前中に参詣しました。
河原町通りの方から来ました。
真正面です。
「天神信仰発祥の神社」の石碑です。
手水舎でお清め。
今さらながらではありますが、頭がこれ以上悪くならないようにお願いしてきましたよ。
御神木の相生の木です。
良い縁成就、夫婦円満。念入りにお願いしてきました。
雨除けの屋根の隙間からしか見えませんが、立派な木です。
「白瀧稲荷大明神」です。
「多治比の文子 銅像」です。乳母として、菅公の才能を開花させた人なので、よほど頭の良い人だったのではないでしょうか。
末社ですが、老松社(おいまつしゃ)、福部社(ふくべしゃ)、火之御子社(ひのみこしゃ)、白太夫社(しらたゆうしゃ)が祀られています。
菅公「腰掛石」です。
頭が悪くならないように、なでてお願いしました。
絵馬です。
菅公の年表や「文子託宣の図」など見ていて飽きません。
本殿の隣に「文子殿」があります。
中はとてもきれいです。神前結婚式など行われるようです。
京都駅から近いので、北野天満宮まで行けない方は、こちらから菅公にお願いしてみてはいかがでしょうか。学問だけではなく、良縁祈願、恋愛成就の御利益があります。
アクセス
- 京都市バス「烏丸六条」下車、徒歩5分
- 京都市バス「河原町正面」下車、徒歩7分