山上の楽園跡
昨日の「愛宕山鉄道 ケーブルカー廃線跡 その1 鋼索線編」に引き続き、今回は鋼索線(ケーブルカー)の終点である山頂駅の「愛宕駅」と「愛宕山ホテル」、「愛宕遊園地」の跡を巡ります。
昨日紹介した「愛宕山鉄道」の「鋼索線」は「私有地、無断進入禁止」と札がありました。また、トンネルは中で崩落していたり、橋梁も一部崩壊していたりと、お世辞にも登山路として紹介できるような代物でもありません。
それに対して、今回の「愛宕駅」「愛宕山ホテル」「愛宕遊園地」の跡地は説明書きが建てられていたりするので、見学するのは自由だと思われます。また、「愛宕山表参道」からわき道にそれると到着できるので、侵入禁止としているわけでなないようです。
ただし、「愛宕駅」「愛宕ホテル」ともに、人間が放棄してから75年の歳月が経過しており、とても危険な状態であることには変わりがありません。見学しに行くのは自由ですが、事故にあったり、ケガをしたりしても私は責任が取れませんのであしからず。すべて自己責任で行動してください。
そして、私はこのBlogで、皆さんに行けと推奨しているのではありません。行ってきたことを自慢しているのでもありません。このBlogを読んでいただくとわかると思いますが、何か特別珍しいものが見られるわけでもなく、特別な体験ができるわけでもありません。そこに過去ににぎわった施設があったというだけです。
はっきり言って、
行かない方が得策です。
私のBlogをみて、こんなところか、ということで満足(妥協?)してください。素人の私が見ても危険だと思うところが多々あるのですから、マージンを見て判断する専門家なら近づくことはもとより、登ったりすることなんてもってのほか、と判断されるかもしれません。この後も、年々荒廃は進むでしょうし、建物の内部崩壊から、一気に倒壊となるかもしれません。
ケーブル愛宕駅
昨日の続きの「ケーブル愛宕駅」のホームから始めましょう。
「愛宕駅」の建物で言うと裏側に当たるんですよね。玄関口は写真の反対側にあります。朽ち果ててます。
ここから鋼索線が伸びていたんですよね。ふもとの「清滝川駅」まで。
駅舎の北側の柱はもうすでにコンクリートが風化していて、無いに等しい状態です。実はこの柱の上の「テラス」にこれから上るんですよね。
そしてこのつらら。
地面の葉っぱなども凍ったままです。
柱にも氷のコーティングが張り付いています。
建物の際まで来ました。たぶんここに大きな鉄輪があって、鋼索線を繰り出していたのでしょう。
ホームの遺構を駅舎から見ます。すごい傾斜ですね。我ながらよくもまあ上がってきたもんだと思います。
北の端の柱です。駅舎の二階のテラス部分を支えている柱なのですが、この状態では長くは持たないと思われます。たぶん、中に浸み込んだ水分が凍ることによって膨張し、少しずつコンクリートを破壊してきたのではないでしょうか。なので、北側に建っている柱の方が侵食されています。
「愛宕駅」の窓は当然ガラスなんて無くなってますし、窓枠も無くなってしまっています。
北側から見た1階フロアです。切符売り場や待合室があったんでしょうね。
中は何も残っていません。
廃業後、75年間放置されたままです。
一階の床に窪みが...
よく見ると「穴」ですね。
「穴」から地下のフロアが見えます。私が乗ったことで、一階の床がごそっと抜けないか心配ですよ。
南側に出ました。日光が当たって暖かく感じます。
西側の「愛宕駅」正面に廻りました。
「ケーブル愛宕山駅跡」の説明板が立ってます。
ケーブル愛宕駅跡
昭和四年(一九二九)七月二五にちに開業したケーブルは山麓清滝から愛宕駅まで約十五分で結ばれ、当時営業距離と高低差において「東洋一」と言われた。標高七四〇mのこの山頂駅周辺には料理旅館やお土産屋、参拝用の駕籠かき番屋などがあった。駅舎は地下一階、地上二階建の構造で、地下にはケーブルを運転する機械室が一階は待合室や改札口があった。二階には「愛宕食堂」があって、カレーライスやタンシチューなど当時としてはハイカラなものが出され人気があった。また、食堂から外階段で屋上に上がる展望台としても利用されていた。
京都愛宕研究会
なんか、一階の玄関口から吸い込まれていきそうな廃墟ですね。
玄関の張り出し部分も柱が限界に近いようで、倒壊しそうですよ。
一階南西角にある階段から2階フロアに上がりましょう。階段の裏側(底面)のコンクリートは剥がれ落ちて、鉄筋が露出しています。
階段をゆっくり踏みしめて上がります。階段の表面は氷がカチカチに張ってツルツル滑ります。2階の天井が見えてきました。
2階のフロアが見えてきました。階段の途中から北方向を見ています。
階段の途中から見た2階フロアの南東角です。
2階には食堂があったそうですよ。
2階東側の窓と、テラスへの出入り口です。
建物の中も、すごい氷柱ができています。
テラスへ出ると、北側に屋上に上がる梯子が立てかけてありました。
怖いけど登ってみよ。一人で来てるんですけど、なんかあったら一巻のおしまいですね。この梯子、よく見ると窓枠などの鉄材をはがしてきて組み合わせて作ってます。
昇ってます。お~こわ。
そうろと、頭を出しました。屋上の床面です。
なんか、屋上というより、乾燥した大地のようですね。
おお、亀岡方面は雲海ですよ。もとい霧海でした。
屋上から見た、玄関前広場。たっけー。柵がないので屋上のへりに近づくのが恐ろしいです。一つの階の高さが結構あるので4階にいるような風景ですよ。ひえーッ。
登る者も登る者でしょうけど。梯子を付けた者も相当な者です。突風が吹いていたら恐ろしくて登ってられません。尾根筋なので風はけっこうありますよ。びゅうびゅう吹いてます。
せっかくですから、展望をよく見ておきます。京都市内方向は雲にかすんで視界不良。
洛西から亀岡方面は霧が少しずつ晴れてきています。しっかし屋上は寒いです。けっこうな風です。
寒いし、降りよ。そういえば、このテラスの下の柱はコンクリートがほとんどなかったなぁ。テラスごと、ごそッと落ちないかな。やだやだ、変なこと考えるのはよそう。
そんなことを考えていると怖くなってきたので、床が抜ける前に外に出ましょうか。2階フロアから階段を下ります。
ここの柱もたいがいですね。形だけみたいですよ。
壁の装飾も時間の経過で変形して何か変な感じになってしまってます。
あの上に立っていたんやなぁ。落ちたら即地上やね。
「愛宕駅」の南側に回ります。
地下の機械室を見ておきましょう。
こうしてみると、やっぱり雰囲気が怖いですね。夜には絶対これません。
入っていきます。
さっきも上からちらっと見ましたが、機械室には何も残っていません。
壁のコンクリートや漆喰が剥がれ落ちています。
この椅子も75年放置されているんですね。
ケーブルカー2台と乗員乗客、それからふもとまでの鋼索線を支えていたところですね。「鋼索線」の機材は京都府下の「傘松ケーブル(天橋立鋼索鉄道)」などに転用されました。
「ケーブル愛宕駅」は結構くまなく探索しました。これと言って何か特別なものが残っているわけではないけど、75年の歳月をヒシヒシと感じる建物です。
愛宕山ホテル跡
さて、今度は「愛宕山ホテル」の方に行きます。「ケーブル愛宕駅」の玄関から真っ直ぐ山手の方に進みます。
それらしい道は無いようですけど大丈夫。
倒木もあるけど超えていきます。
振り返ると「愛宕駅」。
そのうち、道の跡らしき石垣や階段が現れます。
なんとなく道の名残が残ってます。気にせずどんどん進みます。
と、見えてきました。
「愛宕山ホテル跡」の説明板です。写真ではとても立派なホテルですよね。
愛宕山ホテル跡
昭和五年(一九三〇)七月二〇日に開業。石積み外壁の木造平屋建ての様式ホテルで溶質一五部屋、和室一部屋で小駆動や娯楽室を備えた、こじんまりとしたホテルであった。
夏は避暑に冬にはスキー客で賑わった。
水源のない山頂にありながら、このホテルでは浴場が完備され、しかもトイレは浄化槽を備えた水洗トイレであった。下の谷水を汲み上げして、当時としては大変自然にやさしいエコロジーなホテルであった。
昭和十九年(一九四四)二月鋼索線(ケーブル)廃線と同時に閉館され、現在は起訴の石組みだけが残っている。
ここがエントランスだったんでしょうね。きっちりと組まれた石の階段がとってもきれいです。これだけ隙間なく積まれたので、長い年月にも崩れずに残ってます。
少し入ると細かいタイル張りの床があります。
建物の土台部分だけが残り、ホテルの敷地内からも気が生えていますね。
所々残っている壁。
離れの建物もコンクリート造りです。
石組の土台と壁以外は何も残っていません。完全に崩壊しています。「愛宕駅」もそのうち、こんなになってしまうんでしょうね。
ロビーだったんでしょうか。けっこう広い部屋です。
レンガ造りではなく、レンガ調に張り付けてあるんですね。
「1966年」の落書き。この落書きからも53年がたっているんですね。
窓から見た山の斜面。
下から見上げると、山城の城跡のようにも見えます。
ここは何でしょうか。
石が組まれています、洗面所? お風呂の一部?
廃墟感たっぷりの「愛宕山ホテル」跡です。昭和初期のリゾートホテル跡なんですね。もし戦争がなかったら、つまり「金属類回収令」がなく「鋼索線」が廃止にならなければ、今もホテルとしてにぎわっていたのでしょうか。
愛宕遊園地跡
「愛宕山ホテル」の西側は「愛宕遊園地」になってました。ここを探索してみましょう。
「愛宕山遊園地」の説明版です。「飛行塔」の写真が見えますね。
愛宕遊園地跡
昭和四年七月二五日、愛宕山鉄道鋼索線が開業し、愛宕山上遊園地が開園した。園内には愛宕山ホテルと飛行塔に加え、テント村・野外演芸場・子供スキー場・アイススケート場・別荘地が開かれた。そして愛宕駅から表参道花売場への道筋、通称愛宕山四二丁目には、「志んこ」「瓦投げ」を営む茶屋・売店・料亭・旅館・写真館等の商店が点在した。
園内唯一の有料施設である飛行塔は、標高七二五mに設置され、ゆっくり旋回しながら上昇すると京都市が一望できた。昭和十一年、近隣に愛宕山観測所、愛宕神社境内に神猪舎が置かれ人気を呼んだ。
昭和十二年夏、会社直営愛宕山林間学舎「白雲荘」が完成し、後に修養道場として団体集客に活用された。こうした繁栄も、昭和十九年二月鋼索線廃止に伴い園内全ての施設が取壊され、愛宕遊園地は幕を閉じた。
辺りは段々状になっています。あちこちに多くの施設があった面影ですね。
すでに木が生えていますが、当時はなだらかな平地にされていたようです。
と、見つけたのは、ぶっといボルト状の金属。地面から数本が伸びています。
よく見ると、その辺りは四角く盛り上がっていて、土砂がかぶってますが、もしかして、「飛行塔」のあったところ? コンクリートの大きな土台が埋まっているようです、
林になってますが、石組があったり、道の名残があったりして、何となく、ここに何かが建っていたと感じさせるところです。
誰かのいたずらか、碍子の破片が木の枝に吊り下げられていました。
ここも何かの遺構の跡ですね。
「DAINIPPON」と書かれたビール瓶。 「大日本麦酒株式会社(だいにっぽんびーる)」は、かつて日本に存在したビールメーカーで、現在のアサヒビールやサッポロビールなどの前身です。明治39年(1906年)9月に、「大阪麦酒(アサヒビールの前身)」、「日本麦酒(恵比寿ビールを製造していた)」、「札幌麦酒(サッポロビールの前身)」が合併して誕生したビール会社です。
こんなマークだったんですかね。
陶器の破片が散らばっています。
当時のお茶碗やお皿と思しき残骸。
お酒の瓶ですかね。
「愛宕山ホテル」の一部だと思いますが、半分土砂に埋もれた廃墟と化しています。
その横に、何かの建造物がありますよ。
折れたパイプと、建造物からもパイプが...もしかして...
すみっこが壊れていますね。
上部も一部壊れています。
覗き込むと...
水を溜めていた貯水槽ですね。
「愛宕駅」まで戻ってきました。
亀岡市内の霧は晴れたようです。
南丹市の方はまだ霧がかかってますね。
さて、「鋼索線」「愛宕駅」「愛宕山ホテル」「愛宕遊園地」と見てきましたが、せっかくここまで来たので、「愛宕神社」にお参りしましょう。
この遺構があるのは「愛宕山表参道」のだいたい3/4ぐらいのところですので、そんなに遠くありません。
次回の「愛宕神社 参詣」もご期待ください。
アクセス
- 京都バス「清滝」下車、徒歩2時間~3時間