中井正五郎殉難之碑 詐欺師 龍馬?

腕の立つ十津川郷士

油小路にある「中井正五郎殉難之碑」です。幕末、新選組といえば「池田屋騒動」や「油小路の変」が有名ですが、あまり取り上げられない事件に「天満屋騒動」というのがあります。

「天満屋騒動」は新選組側が襲撃を受けた事件なので、新選組ファンにはあまり受けないのかもしれませんね。

事の発端は、「坂本龍馬」、「中岡慎太郎」が暗殺された「近江屋事件」です。で、この「近江屋事件」のもととなったのが「いろは丸事件」。「いろは丸」は伊予国大洲藩が所有していた西洋式蒸気船でした。この船が「坂本龍馬」の「海援隊」による運行中、瀬戸内海、備讃瀬戸の六島で紀州藩の「明光丸」と衝突し浸水のため宇治島沖で沈没してしまいました。

詳細は省きますが、龍馬ら海援隊は紀州藩との交渉の末、莫大な賠償金をせしめます。そして慶応3年11月15日「近江屋事件」が起こり、「坂本龍馬」、「中岡慎太郎」が暗殺されてしまいます。しかし、実行犯が誰かについてはわかりませんでした。

でも、事の流れからすると、黒幕は紀州藩の関係者ではないかと思うのは不自然ではありませんよね。「陸奥宗光」もそんな一人で、紀州藩公用人であった「三浦安(やすし:三浦休太郎)」を討つことを「海援隊士」、「陸援隊士」らと計画します。危険を感じた紀州藩は、会津藩を通して新選組に「三浦安」の警護を依頼し、新選組の「斎藤一」、「大石鍬次郎」ら7名がつくことになりました。

そして慶応3年12月7日(1868年1月1日)「天満屋騒動」おこりました。「海援隊・陸援隊士」ら総勢16名が、「三浦安」、新選組隊士らが酒宴を行っていた旅籠「天満屋(てんまや、天満屋惣兵衛)」の2階を襲撃します。こういう事件は酒宴のときに多いですね。酒飲みが多かったんですかね。それとも酒宴の情報が洩れてたんでしょうか。

で、天満屋2階では、「三浦安」が新撰組副長「土方歳三」ら6名と歓談していたのですが、そこに土佐藩「山脇太郎」、「山崎橘馬」、十津川郷士「中井正五郎」、「前岡力雄」ら16人がが討ち入ります。

「中井庄五郎」が出会い頭に「三浦氏は其許か」というなり斬りつけ、「三浦安」は頬を負傷します。新撰組「斎藤一」は、中井の右手を斬り落とし、斬殺しています。その後、両者は入り乱れて切り合いますが、燈火を消し、暗闇での戦いとなりました。その時、新選組側の機転で、「三浦を討ち取った!」という声が上がります。これを聞いた「陸奥宗光」らの襲撃犯は素早くその場を引き揚げて退却します。その後、不動堂村より10数人、本願寺より数10人の応援が駆け付けました。

土佐藩士達の中で唯一亡くなった「中井庄五郎」はその時、まだ21歳の若さでした。剣術にたけた「中井庄五郎」は上洛後、尊譲派と親交を持つようになり、若かった自分にも分け隔てなく攘夷論を超えた国際的視野に立つ日本の未来像を話してくれた「坂本龍馬」や「中岡慎太郎」を敬愛していました。その敬愛する2人の仇をとるということで討ち入りの先頭に立った「中井庄五郎」ですが、歴戦の強者にはかなわず命を落としてしまいます。

一方、軽傷を負った「三浦安」は紀州藩士4、5人とともに、紀州本陣の置かれた本願寺に逃れることができました。後世、討ち入りのリーダーであった海援隊の「陸奥宗光(当時は陸奥陽之助)」は外務大臣となり、命を狙われた「三浦安」は、明治になって貴族院議員、「東京府知事」となっています。明治政府って、殺伐とした人間によって構成されていたんですね。お~こわ。

中井正五郎殉難之碑 No2

「中井正五郎殉難之碑」です。一瞬わかりませんでしたよ。保護色使ってるみたいに景色に溶け込んでました。

中井正五郎殉難之碑 No3

わかりました?「中井正五郎殉難之碑」です。以前はここに「天満屋」があったんですね。

中井正五郎殉難之碑 No4

お地蔵さんの横です。ブロック塀が迫っているので石碑の北側の面は何が書いてあるのかわかりません。

中井正五郎殉難之碑 No5

「勤王之士 贈五位 中井正五郎殉難之(碑)」と読めます。

中井正五郎殉難之碑 No6

「坂本龍馬」は「賠償金をせしめた」と書きましたが、龍馬らはミニエー銃400丁など銃火器3万5630両や金塊など4万7896両198文を積んでいたと主張し、事故から1か月後に紀州藩が折れて積荷代に相当する賠償金8万3526両198文を支払う事で決着したのです。

ところが...

時は流れて1980年代、沈没した「いろは丸」の船体が海底で発見されることになるのです。複数回実施された調査では、「いろは丸」からは朱や鮫皮などの交易品が見つかったのですが、龍馬らが主張した銃火器などはまったく確認されておらず、紀州藩から多額の賠償金(現在の貨幣価値に換算すれば、なんと164億円)をせしめるための「はったり」であったと見られています。嘘八百です。やるな、龍馬!

当時、海底に沈んだ船を引き上げることなど不可能でしたから、言ったもん勝ちという構図なのでしょうが、相当な根回しをし、「万国公法」を盾に強気な交渉で巨額の富を得た龍馬と土佐藩は笑いが止まらなかったことでしょう。ホントに悪人ですね。そんな真実を知ってしまうと、純真だった「中井正五郎」の哀れなこと。そんな現代の逸話まである「中井正五郎殉難之碑」、一度訪れてみてください。

アクセス

  • 京都市バス「西本願寺前」下車、徒歩4分

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