西八条殿
今まで、「源氏」ゆかりの神社仏閣などはたくさん紹介してきましたが、対抗勢力である「平氏」に関するものは少なかったので、今回は「平氏」に関する神社を紹介します。「平氏」というよりは「平家」ゆかりの神社です。
以前、「西大路通り」と「JR東海道線」の高架部分を紹介しましたが、そこから北に向かって歩きます。
歩きますというほどではなく、開削潜行していた「西大路通り」が通常の地表面に上がってきたところです。
そこから、北方向を見ると、「西大路通り」がいきなり、斜めになっています。上の画像のように「西大路八条」のバス停前で断層でずれたかのように、道が西方向にスライドした状態です。
バス停の前まで来ました。歩道が広くなってるの?と思われるでしょうが、そうではないんですよ。
西大路八条の交差点のすぐ北側だけが西大路通りに張り出すように突出していて、木がいっぱい植えられています。そのすぐ北側では「西大路通り」は、もとの東寄りに戻ってます。
この突出部、実は神社の境内であって、道を作るからと言って削ることができない事情があるんです。ここには上を見てお分かりと思いますが、「若一(にゃくいち)神社」という「平清盛」公ゆかりの神社が鎮座しているのです。
この歩道のところに駒札と石柱が建っています。昔は境内の入り口だったのでしょうか。「弁財天社」の背面が見えています。今現在の入り口は北寄りです。
「若一神社」の駒札です。
石柱には「平清盛公西八条殿跡」とありますね。「西八条殿」は「平清盛」の建てた邸宅で、その敷地は現在の梅小路公園まで及ぶ広大なものだったそうです。敷地内には大小50あまりの建物があり、周辺には「平重盛」、「平宗盛」、「平頼盛」らの屋敷も建ち並んでいたという、平家の創本拠地みたいなところでした。現在でも「御所ノ内町」の町名が残っています。
そこそこの敷地がある境内なのですが、敷地内にたくさんの神社が鎮座しているので、ぎゅうぎゅう詰めの様相です。
入り口横の「若一神社」の石票です。
ここが入り口なのですが、この入り口の歩道を介した反対側に、突出部への入り口があります。先にそちらに行って、突出部が削れない理由を見てみます。
突出部は階段で上がるという、段上になっています。
「若一大神御神蹟」とあります。
「楠社(くすやしろ)」です。「平清盛公」が太政大臣に任ぜられたことを感謝して「西八条殿」にお手植したものといわれる御神木です。この木があるので、西大路通りを通すからと言っておいそれと神社の境内を遷移することができなかったのです。樹齢は800年を超える楠の大木です。
段上から見た「若一神社」。
では「若一神社」の本殿の方にお詣りしましょう。
神額には「若一王子」と書かれています。「平清盛」は「熊野権現」を篤く信仰し、熊野詣にも度々出掛けました。そして邸内に、鎮守社として紀州熊野の「若一王子」の霊が祀られることになります。
「手水舎」です。
「平清盛公 創建の社」と掲げられています。
平安時代後期、「平清盛」公は六波羅の邸宅とともに、この地にも別荘である「西八条殿」を建てました。仁安元年(1166年)、「清盛」は熊野詣の途中で、「西八条殿に埋められている御神体を掘り起こして奉れ。」という御神託を受けます。帰京の後、「西八条殿」の邸内を探すと築山に光が差しています。「清盛」自ら三尺ほど掘り返すと、土の中から御神体である「若一王子」が現れました。「清盛」は「西八条殿」内に邸内社を造って篤くお祀りし、自らの「開運出世」を祈願し続けました。これが「若一神社」の始まりだと考えられています。
翌年、「清盛」が「太政大臣」に任じられたことから、「若一神社」は「開運出世」の神として崇められることになります。なんせ、一介の武士であった「清盛」が「太政大臣」にまで出世したというのは、当時の世の中の常識では考えられない出来事だったからです。
この「清盛」公の御神託で掘り返された「若一王子」には逸話があります。奈良時代の第49代「光仁天皇」の頃に、仏教を伝えるために「唐」より「成光上人」が来日しました。「成光上人」は天王寺に住み、熊野詣の時に「若一王子」の分霊を笈(おい)に背負って、衆生救済のために諸国を巡って、この地を訪れたそうです。この地は浅水が豊かに湧くので「浅水の森」と呼ばれていました。「浅水の森」には古堂のみが建てられていたのですが、上人が堂で一夜を明かすと御神託があり、堂内に御神体を安置しました。しかし、その後に戦乱が起こり、御神体は土中に埋められたということです。後世、「清盛」公が掘り起こしたのは、この御神体であったと思われます。
ガラス越しに「前立て鏡」が見えています。
寿永2年(1183年)5月、「源義仲」は「倶利伽羅(くりから)峠」で「平維盛」率いる平家の大軍を破り、京都へ入ります。平家は「六波羅邸」と「西八条殿」に自ら火を放ち、都落ちしました。「西八条殿」は消失したのですが、「清盛」公御手植えの楠は残り現代まで生きながらえています。当然「若一神社」も消失してしまいます。
これにはまだ後日談があり、江戸時代、元文5年(1740年)「日旋老師」の夢に白衣の衣冠の老神が現れ御神託がありました。御神託が告げた通り、「若一王子」の御神体を再び掘り起こすことに成功し、この地に「若一神社」を再建したととんことです。
境内にはいろいろな神社が鎮座しています。
「平清盛公ゆかりの御新水」とある「若一神社の神共水(じんぐすい)」です。「清盛」公の熱病を冷やすために使ったと言われる御神水です。この「神共水」は「平家物語」にも記述があり、「開運出世の水」として、また地元では新生児誕生の産湯としても使われています。
「平家物語史跡祇王歌碑」とあります。「清盛」の寵愛を受けた白拍子「祇王(ぎおう:妓王)」の歌日です。「祇王」は「西八条殿」を与えられ、母、妹も呼び寄せたのですが、「祇王」が「清盛」にとりなした白拍子「仏御前」が清盛の寵愛を受けることとなってしまい、「祇王」と母、妹は「西八条殿」を追い出されてしまいます。
その「祇王歌碑」には
「萌出づるも枯るるも同じ野辺の草 いづれか秋にあはで果つべき」
「春になって芽生えたばかりの草も霜に打たれて枯れようとする草も、野辺の草は結局みな同じように凋落の秋になると枯れ果ててしまうものだ。」と歌っています。「清盛」公に捨てられて出ていくときに歌った歌だそうです。せつないですね。
最近あちこちで見かける「水みくじ」ですね。「清盛」こうゆかりの「神共水」で占うというので、値打ちがありますね。
「相生寿命社」です。「相生寿命社」は天正年間に播州国「高砂神社」より勧請されました。良縁、夫婦円満、子孫繁栄、延命長寿のご利益があります。
「靖國社」です。
「祖霊社」です。
「靖國社」と「祖霊社」の間にも祠があるのですが、二つ上の画像の柱ようにうえから貼り付けられており、「宮内省御用達」しか見えません。なんの神様なんでしょうかね。
「若一神社」の絵馬です。きらびやかですね。平家の隆盛を思わせます。
当然ここにも「お稲荷さん」がいらっしゃいます。
「伏見稲荷大社」から勧請されています。
左は「松尾社」です。右は「福徳稲荷社」です。
太政大臣の衣冠束帯姿の平清盛像です。「平相國平清盛公」とあります。
北の方から見た「若一神社」です。昭和8年(1933年)に京都市電が「西大路通り」を通ることとなって、道幅を拡張しようとしたときに、この「若一神社」の楠も移植するか伐採するかと話し合われたのですが、いざ根っこを切り出すと、関係者に不幸が続き、ご神木の祟りを怖れて、結局、市電の軌道敷は迂回して敷設されることとなりました。なので、現代の西大路通りも「若一神社」の前だけ西側に膨らんでいて、すぐに元に戻るという、いびつな形になっています。
「驕る平家は久しからず」と言われましたが、武士から太政大臣まで上り詰めた「平清盛」公が、開運出世を成し遂げる原動力となったであろう「若一大神」が祭られている「若一神社」です。皆さんもお詣りして「開運出世」を手に入れてください。
アクセス
- 京都市バス「西大路八条」下車、徒歩1分