移り変わる崇仁地区
先日、桜の花を見ながら鴨川沿いを下りました。とてもいいお天気で、なにはなくとも心は軽やかです。
鴨川沿いを歩いた後、いつもは「塩小路橋」を渡って「塩小路通り」から「京都駅」に向かうのですが、今回は「塩小路通り」よりも南側を歩いてみました。
「塩小路通り」で鴨川を西にわたり、最初の交差点を南に進むと「高瀬川」にかかる「須原橋」に出ます。ここを西に向かうとこんな風景です。(画像左の川が高瀬川)
もう少し西に進むと、京都タワーと「柳原銀行記念資料館」が見えます。
「高瀬川」にかかる「柳原橋」です。高瀬川は右手から流れてきて、橋をくぐった後、東に向かって流れます。上流を見てみましょう。
「木屋町」の方から流れてくる「高瀬川」です。
歩いていると、何やら大きな石碑の後ろ側に出ます。
前に回ると、こんな感じです。「櫻田儀兵衛氏の碑」とあります。
隣の石碑には何やら細かく刻まれていますが読めません。Webには載ってたのですが、文語体で難しいです。
その横に駒札がありますが、経年変化で読めません。
やっとその下に、印刷した案内書きがありました。
櫻田儀兵衛翁の顕彰碑の概要
桜田儀兵衛は天保三年八月に生まれ、明治六年一月に柳原庄(現崇仁学区)戸長となり、地元の改善・向上に尽力した。土地や資金を寄付し明治九年に柳原小学校(現崇仁小学校)の校舎を新築し、火災や凶作による村内の貧困者に対して、家宝を売り、倉庫を開放して救助に当たった。また明治十九年に京都でコレラが大流行したが、桜田が村内の大掃除を実施し予防につとめたため、他地区に比べて患者の数は僅かにとどまった。明治二十二年に柳原庄は紀伊郡柳原町となり、桜田が町長に選出された。町長になってからも、桜田は貧民授産所を設立したり、衛生懇談会を開くなど地元の向上に尽力し、これらの活動は明治二十六年に病気を理由に町長を辞任するまで続けられた。同年十一月七日に死去。享年六十二歳。
崇仁地区の文化遺産を守る会(2009年5月2日作成)
とのことです。
彼が39歳の時に「解放令」が発令され地区の戸長に就任しました。そしてすぐに「六条村」、「銭座跡村」、「大西組」「水車小屋」、「本郷」で構成される「柳原庄」の連合戸長となります。「解放令」が発令されたものの、実際はほとんどの被差別身分地区は財力不足などの理由からそれまでの支配から抜け出せずにいました。そんな中で「櫻田儀兵衛」は小学校建設のために土地や費用を提供したり、火災や災害による被災者を救済したり、また、コレラの流行時には衛生状態の保持を努力するなど私財を投入して「柳原庄」の改善に尽力しています。その他にも、鉄道敷地立ち退き交渉や戸長役場の確保を行い戸長としての行政手腕を発揮しました。
彼は皮革工場へのドイツ人技師の招き入れなどにより本格的な製靴場の設置をするなど、実業家としても活躍しています。
明治22年「市町制施行」により「柳原庄」は「愛宕郡柳原町」に変更となり、選挙による初代町長に当選しました。
立派な「櫻田儀兵衛氏之碑」の後ろには何やら大きな建物が建築中です。以前は開発から取り残されていた地域ですが、徐々に都市化が進んでいます。
アクセス
- 京都市バス「塩小路高倉」下車、徒歩4分
コメント
変換ミスです。「櫻田儀兵衛翁の県消費」(誤)県消費(正)顕彰碑