抗争事件勃発
今回は新選組関連の史跡です。中心となる人物は「伊東甲子太郎」。「鈴木大蔵」という名前でしたが、北辰一刀流剣術伊東道場に入門し、道場主の「伊東誠一郎」に力量を認められて婿養子となり、「伊東大蔵」と称しました。その後、新撰組に加盟するのですが、上洛の時に、その年(甲子)に因んで「伊東甲子太郎(かしたろう)」と改名します。
しかし、甲子太郎は勤王派(倒幕)であり、新選組の佐幕派(幕府を補佐する)とは思想的に相いれず、最終的には新選組を離脱し、同志14名と共に「御陵衛士(ごりょうえじ)」を結成します。「御陵衛士」は東山区の高台寺塔頭である「月真院」を屯所(本拠地)としたため、「高台寺党」とも呼ばれました。
さて、このことを面白く思わない新選組は密かに暗殺を企てます。なんせ「局ヲ脱スルヲ不許」という法度があったぐらいですから、大っぴらに離脱した甲子太郎らを粛清しないと示しがつきません。
ここまでは新選組としても規律を守りカッコいいのですが、その暗殺の仕方が何ともカッコ悪い。甲子太郎が北辰一刀流の剣術使いであり、そうそう簡単には暗殺できないと考えて、「近藤勇」は資金の用立てや国事の相談があるとの口実で七条の妾宅に甲子太郎を招き酒宴を設けます。その帰路、酩酊状態になった甲子太郎を新選組隊士の「大石鍬次郎」らが待ち伏せて槍を以って下肢太郎を暗殺しました。甲子太郎は深手を負ったのですが一太刀敵に浴びせ、「奸賊ばら」と叫んで、「本光寺」で絶命したそうです。
これが「油小路事件」と呼ばれる新選組と御陵衛士の抗争事件で、この甲子太郎の遺骸を放置して、遺体を引き取りにきた同志をまとめて粛清しようとしました。遺骸を引き取りにきた同志は7名でしたが、この待ち伏せによって、「藤堂平助」のほかに、「服部武雄」、「毛内有之助」の3名が討死しました。
まあねぇ、戦術と言ってしまえばそうなのかもしれませんが、金の相談で釣って「妾宅」に呼びよせ、酔っぱらわせてから「槍」で致命傷を負わせるなんて、全然男らしくありませんね。それも数十名の隊士が出動して甲子太郎を襲ったというのですから情けない。後世、どんな風に言われるかまでは考えなかったのでしょうか。そういえば近藤勇という男は「大久保剛」「大久保大和」と変名し、新政府軍に捕縛されてからも「大久保大和」を貫き通して白を切ろうとしています。しかし「御陵衛士」だった「加納鷲雄」、「清原清」に近藤であると正体を看破され、結局、中仙道板橋宿近くの板橋刑場で「横倉喜三次」、「石原甚五郎」によって斬首されました。
新選組と言えども、これは男の美学ではありませんね。
ま、そんなことはさておき、「伊東甲子太郎」が襲撃された「油小路通り」の「本光寺」に行ってみます。
「七条通り」から「油小路通り」を下っていくと、道の左手に家と家に挟まれた「本光寺」が見えてきます。
少し奥まったところに山門があります。
山門の前には「伊東甲子太郎外数名殉難之跡」と石碑が立ちます。
駒札も立っています。
襲われたのは、「本光寺」のすぐ南の路上で、上の画像では床屋さんの前あたりだそうです。
では、「本光寺」の中に入ってみます。
お稲荷さんがありますね。
普通の家のようなたたずまいです。奥は墓地になっています。
山門のすぐわきに立派な祠が経っています。
この題目石塔によりかかって甲子太郎は絶命したとのことです。その横には「伊東甲子太郎絶命の跡」と石碑まで建っています。
北辰一刀流の甲子太郎は、記録によると「油小路事件」以外には人を斬ったことがないようです。容姿端麗で和学もたしなみ、新撰組内でも人望の厚かった甲子太郎は対話を重視する温厚な人柄であったようです。もったいないですね。維新後の世の中で活躍できた人であったでしょうに。
幕末の京都では新選組を中心にいろいろな抗争事件が勃発しました。史跡もいろいろと残っていますので巡ってみると面白いでしょう。
アクセス
- 京都市バス「下京区総合庁舎前」下車、徒歩2分