山崎闇斎邸址 しでます神道

崎門学派

前回(5月21日)に「伊藤仁斎邸跡」を紹介しましたが、今回は「伊藤仁斎邸跡」の堀川を挟んで反対岸にある「山崎闇斎邸址」を紹介します。

ホントは、昨日記事を書こうと思っていたのですが、昨日は天気が良くて朝から比叡山に登ってました。んでもって、帰宅の後、夕食を食べたら爆睡してしまって記事が書けませんでしたよ。寄る年波をつくづくと感じました。

さて、儒学にはいろいろな学派がありますね。「伊藤仁斎」は「古義学派」と呼ばれますし、「山崎闇斎」は「南学派」で「闇斎学(崎門学)」と呼ばれます。日本での儒学はいろいろな学派に分かれ、各々が刺激し合って発展してきました。

「山崎闇斎」は元和4年(1619年)の京都生まれです。幼くして比叡山に入門し、その後「妙心寺」に移って僧となりました。19歳のころ土佐国の「吸江寺(ぎゅうこうじ)」に移り、「湘南宗化(しょうなんそうけ)」の弟子となり、「土佐南学派」の「谷時中(たにじちゅう)」に朱子学を学んだことから朱子学への傾倒を深め、寛永19年(1642年)に25歳で儒学者となりました。

明暦元年(1655年)、京都市上京区に「闇斎塾」を開きました。後に「伊藤仁斎」が堀川を隔てて相対する位置に、「古義堂」を開いています。「闇斎塾」の方が先に開かれたんですね。

「山崎闇斎」の教えは、君臣・師弟の関係を厳しく教え、大義名分を特に重視するなどしたので、幕末の尊王攘夷思想(特に尊王思想)に大きな影響を与えました。有名な弟子に「浅見絅斎(あさみけいさい)」などがいます。

では、「闇斎塾跡」に行ってみます。

山崎闇斎邸址 No2

「堀川下立売」の交差点です。「堀川丸太町」からバスに乗ったのですが一駅で「堀川下立売」のバス停でした。歩こうかと思ったのですが、バス停横を歩いていると、ちょうどバスが来たので反射的に乗ってしまいました。

山崎闇斎邸址 No3

ちょっと逆光で見にくくなってしまいましたが「下立売通り」の道標です。山崎闇斎邸址 No4

堀川から「下立売通り」を西に向かいます。

山崎闇斎邸址 No5

で、すぐ1本目の小路を北に上がりましょう。

山崎闇斎邸址 No6

少し歩くと、お、見えてきましたよ。

山崎闇斎邸址 No7

あれです。風景に溶け込んでいますね。

山崎闇斎邸址 No8

「山崎闇斎邸址」の石票です。

山崎闇斎邸址 No9

こじんまりと民家の前に建っています。

山崎闇斎邸址 No10

ここに「闇斎塾」があったのですけど、今は民家が立ち並んで面影もありません。当時も民家が立ち並ぶところだったのでしょうね。「伊藤仁斎」の弟子が3,000人と言われますが、「山崎闇斎」は6,000人とも言われます。多くの門下生が集った場所だったんでしょう。

「山崎闇斎」は「吉川神道」の創始者である「吉川惟足」に学んで、神道研究にも本格的に取り組むようになり、従来の神道と儒教を統合して(神儒融合)、「垂加神道(すいかしんとう、しでますしんとう)」を開きましたた。「心神(人間の心)は、即ち天神と同源であり同一である。」との思想から、自らの「心神」を自宅の祠に祀りました。社名は「垂加霊社」と言い、のちに「下御霊神社」の境内に遷座して、「猿田彦神社」に合祀され、「垂加社」として現存しています。

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江戸時代までは中国から伝わる儒教の教えが学問の中心でしたが、近代化が進んだ明治以降は西洋からの学問が主流となり、儒教は徐々に廃れていきます。

闇斎は天和2年(1682年)に死去し、墓所は「金戒光明寺(くろ谷さん)」にあります。

こちらのお墓も紹介しましょうね。

アクセス

  • 京都市バス「堀川下立売」下車、徒歩3分

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