京都駅の近く
京都市下京区にある「道祖神社」です。「道祖神」を祀った「道祖神社」は京都市内にいろいろあるのですが、京都で「道祖神社」と聞くと、まずここを思い浮かべる人が多いと思います。
場所は塩小路堀川の近くです。そうそう、少し前に「新選組」の不動堂村屯所跡の候補地をいくつか紹介しましたね。その時の「不動堂明王院」のすぐ北隣に鎮座しています。通りでいうと、「油小路通り」の塩小路を少し下がったところです。「道祖神社」の前は、なぜか人通りの多い道です。南へ行くと堀川と合流しながらJR東海道本線の下をくぐって、京都駅の南の方に行けるからですかね。駅の南にはイオンモール京都やたくさんのホテルがあってにぎやかなんですよ。
さて、「道祖神社」のご祭神は「猿田彦大神(さるたひこおおかみ)」とその姫神である「天鈿女命(あめのうずめ)」です。「猿田彦大神」といえば「瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)」が日向(ひゅうが)高千穂峰に天降った「天孫降臨(てんそんこうりん)」の際に、その道案内をしたとされる「国津神(くにつかみ)」で、「道の神」「旅人の神」「縁結びの神」「交通安全の神」として信仰されます。
「天鈿女命」は神話に登場する「岩戸隠れ」の時に岩戸の前で踊ったことによって、「天照大御神」に岩戸を開けさせた日本最古の踊り子で芸能の神様です。
この「道祖神社」の創祀や変遷の詳細は不明です。平安時代の昌泰2年(899年)、第59代「宇多法皇」の東七条御所「亭子院(ていじのいん)」(現:七条西ノ洞院付近)を離宮とし、その鎮守社として創建されたということです。
さて、「宇多法皇」が、「亭子院」を「後院」とすべく区画内に新たな建物を建てようとしたところ、古井戸野中から「不動明王像」が派遣されました。これは、ここが古くは「空海(弘法大師)」が「嵯峨天皇」より賜った「東寺」の「鬼門」の方角にあたり、空海自身が発見した霊力ある石に「不動明王像」を彫り、人目に触れぬよう埋めたものだと判り、法皇は勅令でその井戸を封じたそうです。その「不動明王像」は現在でも隣の「不動堂明王院」の井戸の中に安置されていて見ることができません。
ちょっと話が脱線しましたね。承平元年(931年)に「宇多法皇」が崩御された後、「亭子院」は廃止され、「道祖神社」は現在地に遷移されたそうです。その後は何回か焼失しており、安土・桃山時代、天正18年(1590年)、「豊臣秀吉」が行った「天正の地割」によって「道祖神社」も翌天正19年(1591年)不動堂町下手の東側に遷移されました。その後、近代に入って、明治6年(1873年)、境内が鉄道用地となり、西の現在地に遷移しています。
前置きはこれぐらいにして、それで行ってみましょう。
塩小路堀川の交差点です。交通量が多いところなので、横断歩道はなく歩道橋で渡ります。
塩小路通りから油小路に入ると、すぐに「同祖神社」の案内板と大きな屋根が見えます。実は大きな屋根は「不動堂明王院」で幻の屯所跡と呼ばれるところです。「同祖神社」はその手前です。
「同祖神社」の真ん前に来ました。
立派な石票が建っています。
入り口には平安装束の「道祖神」がお出迎えしています。「道祖神」は「岐(わかれ)の神」であり、「賽(さえ)の神」、「障(さい)の神」として街道筋や村の出入り口といった交通の要所に祭られました。もともとは「神(道祖神)」が外から侵入する邪悪なものを遮り、また道中の安全を守ってくれるという民間信仰から来ています。
また、「足止め祈願」というのもあり、これをすると家出人の足がすくんで家に帰って来るとの言い伝えがあります。
この「さえ」「さい」から「幸(さち)」になり「幸(さい)の神」、「縁結び神」「夫婦和合神」となっていきました。
手水舎がありますが、残念ながらお水はありません。
基壇の上に鎮座しています。
お詣りしましょう。
「道祖神」の神額です。
「えんむすびの神」と御神灯に書かれていますね。
中の写真を撮ろうとしましたが、反射してうまく映りませんでしたよ。
境内を見てみます。
末社には「書聖天満宮」があります。
「書聖」とは「書道」の名人、当然「菅原道真」公を指し、御霊社です。明治26年(1893年)の「洛陽天満宮廿五社廻」には入ってますが、現在の「洛陽天満宮二十五社」には入っていません。
お隣は「稲荷社」です。
そして「幸神社」です。
その他、境内には江戸時代の書家「文房四神之碑(うせきかつしん)」筆の「文房四神之碑」があったのですが、現在は堀川通りのまだ西側(芹根水)に移されています。
京都観光の帰り、京都駅で時間が余ったら、「道祖神社」にお詣りしてください。縁結び、夫婦和合のご利益満載で、帰りの道中の無事も祈願できます。
アクセス
- 京都市バス「下京区総合庁舎前」下車、徒歩2分