最古の私立学校
今回は「綜芸種智院蹟」を訪ねます。
「綜芸種智院蹟」の石票が建つのは南区西九条の「西福寺」です。「西福寺」というお寺は京都市内にたくさんありますので、訪れる方は間違いの無いように。GoogleMapで「西福寺」と検索すると、京都市内だけでも6つの「西福寺」が表示されましたよ。命名された由緒はいろいろあるのでしょうが、極楽浄土のある「西方」と「福」が結びついてとっても縁起のいい名前ですね。成仏できそうな気がします。
さて、今回の目的の「西福寺」ですが、「綜芸種智院」があったとされる石碑が立っています。現在の調査では、「綜芸種智院」は「西福寺」から南東に約200m離れたの「九条弘道小学校」の付近(イオンモール京都の南側辺り)だったと考えられています。
この石票は、幕末から明治時代にかけての商人である「三宅安兵衛(やすべえ)」の遺志に従い長男の「三宅清治郎」が京都府内に建てた約400基の史跡・名所の案内碑の一つです。「三宅安兵衛」は京都での「博多織」の取り扱いを独占して成功した人です。死に際に京都のため公利公益のことに使用せよと金1万円を清治郎託しています。
まずは行ってみましょうか。
普通は京都駅の方から西に向かって歩いてくるのでしょうが、私は反対側の「DX東寺」のある方から東に向かって歩いてきました。細い通りなので何通りかは知りません。八条通りの一本南側の通りです。
もすぐ近鉄の高架というところで「西福寺」に到着です。
正面から。「西福寺」は創建の詳細、変遷は不明です。
「綜芸種智院蹟」の駒札です。薄くなってしまって見えにくいです。「綜芸種智院」は「弘法大師空海」が平安時代、天長5年(828)、公卿「藤原三守(ふじわらのただもり)」から「左京九条邸」を寄進されて創設した私設の学校です。2町の敷地に5棟の建物があったそうです。「儒教・仏教・道教」を身分貧富に関わりなく学ぶことのできる教育施設であり、全学生・教員への給食制を完備していたそうです。それまでにも教育機関があったのですが、「大学」は主に貴族向けで、「国学」は「郡司」の子弟を対象とするなど身分制限があり、一般庶民はなかなか教育を受けることができないでいました。また「大学・国学」では「儒教」を専門に教育し「仏教・道教」などは範囲外であり、「寺院」では当然「仏教」を専門に教育しており「儒教」などの世俗の学問は扱っていませんでした。
そこで「空海」が天皇、大臣、公卿、仏教界の高僧らをはじめ、広く世間に支持・協力を呼びかけて実現したのが、日本で初めての私立学校である「綜芸種智院」でした。
これが「三宅清治郎」が建てた「綜芸種智院蹟」の石票です。
ただし、835年に空海、840年に三守が相次いで亡くなると、空海の弟子「実恵」らは、「綜芸種智院」を「東寺」の「伝法院」に合併させ、「綜芸種智院」は廃絶してしまいます。そして承和12年(845年)には建物を売却して、「東寺領大山荘(丹波国多紀郡)」を取得しています。
「空海」の構想は画期的で、進歩的だったのですが、実際にはなかなか運営を続けることは困難だったようですね。
「弘法大師御自作 安産薬師如来(あんざんやくしにょらい)」の石碑です。残念ながら公開されていないようですね。
「綜芸種智院」とは、「大日教」「大日般若教」中の「綜芸の芸を兼ね、一切の種智を用い、一切の法を知るのみ」に由来するのだそうです。各種学芸を学ぶことによって、「大日如来」の仏智を開顕するという意味があるそうです。現在でも伏見区に僧侶育成機関として「種智院大学」があります。
平安時代には「東寺」の寺域として多くの人々が訪れたであろう地域です。京都駅から近いのでぜひ足を運んでみてください。
アクセス
- 京都市バス「八条油小路」下車、徒歩5分