銅銭
以前、「櫻田儀兵衛氏之碑」を紹介しましたが、同じ場所にある「銭座場跡」の碑も紹介しましょう。
最近は日本でもキャッシュレスが叫ばれていろいろなキャンペーンが行われ、乗せられた人々は右往左往しているようですが、なかなか定着しませんね。キャンペーンが終わればそっぽを向かれることが多いようです。
日本という国は貨幣、紙幣の品質が世界トップクラスですので偽造がされにくく、信用がとても高いです。そうなるとなかなか現物取引(ホントの現物取引は物々交換でしょうけど...)から、電子マネーという架空ガジェットには移行できないんではないでしょうか。
そんな貨幣経済の基礎となったのが「銭座」です。古くは飛鳥時代、奈良時代から平安時代に発行された「皇朝十二銭」を鋳造するために設置された「鋳銭司(じゅせんし・ちゅうせんし)」という組織もありました。「銭座」と呼ばれるようになったのは江戸時代になってからです。最初「寛永通寳」などの銭貨鋳造は民間の商人らによる「請負事業」として始まり、幕府の許可制によるものが中心でした。銭貨の需要が生じたときに幕府は鋳銭希望者を公募して、銭貨を大量生産させ、鋳銭高が目標に達すると「銭座」は解散するというものでした。この時、全国各地に「銭座」があったのですが、鋳造された「寛永通寳」の製作および素材は多種多様で、外観上の画一性を欠くものとなってしまいます。これは困りますね。京都で作った「寛永通寳」、江戸では「これほんもの?」という事態になりかねません。
そこで明和2年(1765年)以降は「金座」、「銀座」が鋳銭事業を兼任することになって、「定座」としての解散しない「銭座」が確立し、鋳銭に対する幕府の支配が強化されて銭貨の均質化が図られました。
さて、今回紹介する京都の「銭座場」は元禄11年(1698年)に奉行所から設置が許可され、七条高瀬川際の6,400坪の広大な土地で、元禄13年(1700年)から「寛永通寳(荻原銭:おぎわらせん)」の鋳造が始まりました。宝永2年(1705年)に480坪拡張され,宝永4年(1707年)からは「寳永通寳(大銭:おおぜに)」を鋳造しました。が,この「寳永通寳」、「寛永通寳」の2枚半程度の銅銭であり、また金銭の計算に不便であったことなどから市場での評判はすこぶる悪く、両替商も苦情を申し立てる始末であったと記録があります。この不評であった「寳永通寳」は、5代将軍「徳川綱吉」が没して程なく「徳川家宣」により「生類憐れみの令」の廃止と共に宝永6年(1709年)に鋳銭停止とされ、その通用も停止されます。
ただ鋳銭停止ならいいのですが、京都の銭座は上納した47,750貫文を返還請求できずに大損害を被ることとなってしまい、鋳造所としての歴史を閉じました。
その後、この残った広大な土地(21,000㎡もあった)はどうなったかというと、荒れ放題の荒野となってしまったのです。というのは、鋳造していたのが銅銭であり、残った土地には銅が多く含まれていて農業には適さなかったのです。
長らく放置されていた「銭座」の跡地は、鴨川西岸の五条~六条の地域で皮革業などを営んでいた「六条村」の住人達により再開発されることになります。当時、「六条村」は地域産業の発展で人口が急増し新たな宅地開発が求められていました。享保16年(1731年)から開発され,「銭座跡村(銭座村)」となり、現在の崇仁学区の南部の始まりとなりました。
「須原通り」から「柳原銀行記念資料館」の方(西)に向かいます。
「高瀬川」にかかる「柳原橋」です。
「高瀬川」は木屋町を抜けてここまで流れてきています。
で、「柳原橋」を超えたところで90度折れ曲がって東に流れていきます。
「柳原銀行記念資料館」が見えてきました。この敷地の中です。
門を入ってすぐ南側にあります。
「銭座場跡」の石票です。実際にはここよりも、もう少し南の「東之町」、「西之町」あたりにあったそうです。
隣に立っている「崇仁隣保館」の石碑。「崇仁隣保館」は、戦後の同和対策事業がなされるかなり前の大正9年(1920年)に、京都市の貧民救済のための地域施策として市内5地区に設置された隣保館のうちの一つです。現在は移転して、「下京いきいき市民活動センター」として利用されています。
気になったのが、「銭座場跡」の石碑の後ろに並べられていた石灯籠。
一つ一つに黄色いラベルが貼ってあります。
どこかのお寺の遺物なのでしょうか。
これから貨幣の流通量は少しずつ減少するのでしょうけれども、日本ではまだまだ主流である時代が続くような気がします。実際、実物をものとして手に持つことの安心感はひとしおですからね。
アクセス
- 京都市バス「塩小路河原町」下車、徒歩3分
コメント
変換ミスです。「残った土地には堂が多く含まれていて」(誤)堂(正)銅