山名宗全邸址 落つる涙

 西陣の本拠地

京都には「西陣」と呼ばれる地域があります。西陣織は有名ですね。

これは、応仁の乱で西軍の山名宗全が陣地を置いた場所を示します。対する東軍の細川勝元は室町幕府の「花の御所」付近に陣取ったので「東陣」とは呼びません。幕府の西側に陣取ったので「西陣」なんですね。

室町幕府8代将軍の足利義政が、後継を細川勝元が支持した実弟の義視に譲ろうとしたのに対し、義政の正室・日野富子が、山名宗全が後見人になった実子の義尚を後継にしようとしたために応仁の乱は起こりました。

応仁の乱は、応仁元年(1467年)に起こり、文明9年(1477年)までの約11年間にわたって続きます。戦乱で京都は焦土化して荒廃します。

なれや知る都は野辺の夕雲雀  あがるを見ても落つる涙は

「飯尾彦六左衛門尉」

長い戦いの間に、山名家代々の邸宅も焼失し、宗全は文明5年(1473年)、陣中で亡くなります。今は邸宅址の碑が残るのみです。

 堀川通り

堀川通りに沿いにはいろいろな見どころがあるのですが、今回は今出川通りから北へ上がっていきます。堀川は広い道ですが、その西側の歩道を歩いていると、マンションの横に碑があるのがすぐにわかります。

山名宗全邸址 No2

山名宗全邸址 No4

先ほどの碑から西に折れて少し歩くと、家と家の間にひっそりと石碑があります。

このあたりは「山名町」という地名です。

山名宗全邸址 No5

山名宗全は兵庫県のおそばで有名な出石の生まれです。但馬の国をはじめ、十二国の守護職を務めて「六分の一殿(全国の六分の一を支配する)」と呼ばれました。

山名宗全邸址 No3

文明5年(1473年)3月に宗全は病死し、2か月後の5月には勝元も亡くなります。最終的に文明9年(1477年)にようやく応仁の乱は終結します。

山名宗全邸址 No6

現在は住宅地になっているのでひっそりとしていて静かなところです。

このあたりは応仁の乱に関する史跡がいろいろと残っています。

https://www.kyoto-inf.com/guide-kyoto/2017/07/13/posted-dodobashisoseki/

応仁の乱の史跡巡りをしてみてはいかがでしょうか。

アクセス

  • 京都市バス「堀川今出川」下車、徒歩3分

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