高山彦九郎正之 土下座ではなくて皇居望拝です

三条大橋のたもと

昔、京阪電車が地上を走っていたころ、大阪方面から電車に乗ってくると終点は三条でした。その後、線路は地下を走ることとなり今出川まで延伸され、現在の川端通りがきれいに整備されたのです。

私は小さいころ、三条から京阪に乗ることがよくあったので、この銅像も意識の片隅にはありました。「なに謝ったはんのやろ?」ぐらいにしか思わなかったです。

地元民も「待ち合わせは三条の土下座んところ。」と言いましたから、一般庶民の感覚としては土下座なんでしょうね。ほんとは、「土下座」ではなく、「皇居望拝」と言ってとても崇高なことです。

「尊王思想の先駆け」であり「寛政の三奇人」

こう書くと、変な人と思われますが、そうではありません。

奇人の「奇」は「優れた」と言う意味だそうです。

この像が作られる元となった逸話では、京都の入り口であった三条大橋で、通行人に皇居の方角を訪ねるといきなりひれ伏して号泣し、「草莽の臣、高山彦九郎でございます。」と何度も叫んだそうです。野次馬の人だかりになったそうで、やっぱり、ちょっと変な人かな…   (草莽の臣とは、民間にあって地位を求めず、国家的危機の際に国家への忠誠心に基づく行動に出る人を指すそうです)

彦九郎は「太平記」を読んだことから尊王思想に目覚め、諸国を行脚して尊王論を説き、吉田松陰などに影響を与えたそうです。大政奉還の原動力となった維新の志士たちの思想的な先駆者なんて、とてもすごい人じゃないですか。「太平記」によると彦九郎の高山家は新田義貞に仕えていたそうです。彦九郎は新田義貞の敵であった足利尊氏をたいそう憎み、等持院にある尊氏の墓まで行って「国賊」と叫び、その墓を鞭打ったそうです。やっぱり変な人かな…

高山彦九郎正之 皇居望拝の像

「高山彦九郎先生皇居望拝之趾」と記されています。

高山彦九郎正之 石碑

以前はすぐ後ろに建物があって、写真写りが良くなかったのですが、現在はすべて駐車場になってしまったのでなかなか絵になります。

高山彦九郎正之 No1

う~ん、この顔の迫力。そういえば、何年か前にペンキをかけるといういたずらをされたことがありました。今は元通り、りりしい顔貌を見せています。

高山彦九郎正之 No2

高山彦九郎正之 No3

この高山彦九郎は寛政年間(1790年ごろ)の人です。当然写真はありませんし、現在の銅像も1961年にできたものです。

この迫力ある顔はどこから持ってきたの?

というのが素朴な疑問です。Webでいろいろと探しましたが、中国の学者さんみたいな肖像画しか見つからないんですけど。

近くに来られた時には、この迫力ある顔を見に来てください。鴨川岸にもすぐ降りられますし、のんびりとできるところですよ。

アクセス

  • 京都市バス「三条京阪前」下車すぐ。
  • 京都市営地下鉄「三条京阪」地上へ出てすぐ。
  • 京阪電車「三条」地上へ出てすぐ。

太田市立高山彦九郎記念館〈公式ぺージ〉

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