ここほれ、わんわん ...?
以前、「銀座遺址」の石碑は紹介しましたが、その時は「金座遺址」の石碑の前にまでは行きませんでしたので、紹介しませんでしたね。
今回、「金座遺址」の石碑の前を通ったので紹介しましょう。
烏丸通りの一本西側にある「両替町通り」です。
あまり広い通りではないので北行の一方通行です。私は北の方から歩いてきました。
この建物は「マンガミュージアム(旧龍池小学校)」の建物です。こちらは裏側に当たります。表は烏丸通り側です。
お、ありましたよ。「此附近 徳川時代金座遺址」の石碑です。ご存知のように「金座」とは江戸幕府の「金貨(小判・一分判)」の鋳造所です。
「江戸時代」と書かずに「徳川時代」と書かれているのが ”おつ” ですね。
この辺りは今でも「両替町」という名前の地名であり、冒頭にも書きましたがこの通りは「両替町通り」といいます。この辺りに金座ができたのは、安土・桃山時代の天正16年(1588年)、「豊臣秀吉」の命により、堺・大坂・伏見より、「金屋」、「金吹き」を両替町に集め、室町幕府以来の御用金匠であった「後藤家」一門が「天正大判」の鋳造を行ったことに始まります。この「後藤家」に職人として従事していた「橋本庄三郎」が彫金師の「後藤徳乗」に才覚を認められ、文禄4年(1595年)に名代として江戸に下向し「徳川家康」と接見して、「後藤庄三郎光次」の名の使用を許され、以後代々世襲制として「金座」を支配しました。
この「後藤家」は「茶屋四郎次郎家」、「角倉了以家」と共に「京都の三長者」と呼ばれています。
さて、この初代「後藤庄三郎光次」は文禄4年に、現在の日本橋本石町の日本銀行本店所在地を拝領して、「後藤屋敷」を建て、屋敷内に小判の験極印を打つ「後藤役所」を設けます。また京都、駿府、佐渡に後藤役所「出張所」を設けて、極印打ちを始めます。さらに天領の金山、銀山を支配し、「家康」の財政、貿易などの顧問として権力を誇りました。
もう、うはうは ですね。
初代「庄三郎光次」は「後藤」の姓を名乗るのは光次一代限りと宣誓していたのですが、2代目以降の「後藤庄三郎」に反故にされてしまいます。でも徳川家の権威を背景に京都の「後藤宗家」も黙認したそうです。そりゃそうでしょうね。うはうは ですからね。
ところが、人間、目の前に富があると欲に目がくらんで、当然のごとく悪いことをします。
「水増ししたったら、もっと儲かるねん。」
当然ですわな。悪貨に目がくらんだ世襲制の「後藤庄三郎」がたくさん排出されます。
九代「庄三郎光暢」・・・金貨鋳造時に金目を一部横領し、品位を誤魔化したとして永蟄居(自宅の一室に謹慎させる。解除されることはない)。
十一代「庄三郎光包」・・・同じく三宅島に遠島流罪。
十三代「三右衛門光亨」・・・不正、奢侈、政治批判の罪を問われ死罪。
「お主も悪よのう。」と言われていたのかどうかは知りませんが、悪事はどっかからバレるもんなんですよね。
老中「松平定信」が行った「寛政の改革」では、寛政3年(1791年)以降、京都の「金座」での小判の鋳造は行われなくなり、禁裏御用の「御所御用箔」、金細工職人である「京坂金職」の取締のみを行うようになりました。そして明治元年(1868年)に明治政府によって京都の「金座」は廃止されます。
「マンガミュージアム」の裏の出入り口のすぐ横です。壁にめり込むようになってますね。撤去されなかっただけでもありがたいですよ。
現在、ここには遺構になるようなものは何も残っていませんが、石碑があることで江戸時代にはここに「金座」があったことが分かります。ここ掘ってみたら、「大判、小判がざっくざく...」とはいかんやろうけど、金のくずとか出てこんのやろか? と思ったんですけど...「金座」が廃止になった時に同じようなことを考える輩がいたのでしょうから、金が出てくる確率は低いんでしょうね。つーか、貴重な「金」をおいそれとは ほかすようなことはなかったでしょうし、アホなことは考えんときましょう。
ヨーロッパでは「東方見聞録」が書かれ、日本は「黄金の国ジパング」と信じられていましたね。当時の世界的な金の産出量はわかりませんが、日本では他の国に比べて金が豊富に産出していたのでしょう。マルコ・ポーロの後世が江戸時代の日本を巡っていたら、「金座」を見てここだと小躍りしたことでしょう。
現在でも「金」は貴重品ですが、昔の様に流通目的の金貨を製造している国はありません。現在発行されているものは「記念金貨」や、投資目的の「地金型金貨」であって、純金製のものが一般的なので、やわらか過ぎて流通の用には向きません。
自分と「金」の接点を考えてみたんですけど...全然ありません。しいて言うならパソコンのCPUとかメモリーの中ぐらいですかね。見えないほど少ない量ですね...
アクセス
- 京都市バス「烏丸御池」下車、徒歩5分