早朝
そろそろ年末が見えてきた時期で、どこの職場も忙しくなって来たのではないでしょうか。仕事も忙しいですが、仕事の後の「忘年会」の方も忙しいですね。
京都の飲み屋街というと、「先斗町」や「祇園」の名前が上がりますが、若者や安く上げたい人は、もっと西の木屋町や河原町の方で飲みます。一番東の「祇園」なんて、我々庶民がおいそれと行く所ではなくて、よっぽどのお金持ちしか楽しく遊べないようなところです。確かに風流ですけどね。
で、私のような仕事のできない、端的に言えば給料の上がらない人間は、どうしても西寄りの方で安く上げてしまうんですよね。そんな庶民の味方である「木屋町通」や「河原町通」を歩いていると、けっこういろいろな石碑が目につきます。
この辺りの石碑は江戸時代の藩邸跡や幕末の新選組関係の石碑が多いですね。そんな中で、今回は滅多に話の種には上がらない「彦根藩邸跡」です。
場所は「西木屋町通」の六角交差点です。
「西木屋町通」なんて言いますけど、「高瀬川」を挟んで「木屋町通」の反対側の道です。道の名前なんてあんまり気にしていませんよね。「高瀬川」でいうと、ちょうど「山崎橋」のところです。ご存知の方も多いと思いますが、このあたりの「高瀬川」には小さな橋がいっぱいかかってるんです。
さて、「彦根藩」といえば「井伊直弼」の名前が浮かびますね。第13代の彦根藩主で安政5年(1858年)に「大老」になっています。かってに「日米修好通商条約」などを締結し、「安政の大獄」で尊王攘夷派を抑えにかかったので「桜田門外の変」で暗殺されてしまいます。「彦根藩邸跡」の石碑とはあまり関係がないので細かいことはさておき、「彦根藩邸」の話に戻しましょう。
「彦根藩」は初代藩主が「伊井直政(いいなおまさ)」で所領高は最高時35万石と譜代大名の中では一番大きな数字でした。「桜田門外の変」の後、10万石を減封されたのですが、「彦根藩」は幕末まで存続します。京都に「彦根藩邸」が置かれたのは19世紀になってからなのでそんなに古くないですね。
「高瀬川」に架かる「山崎橋」です。私が立っているのが「西木屋町通」、「山崎橋」の向こう側が「木屋町通」です。
その「山崎橋」の北側に石碑が立っています。今は朝なので人がほとんど通っていませんが、夕方以降は人いっぱいです。
「彦根藩邸跡」の石碑です。実際に建物があったのは、ここから西側の土地で河原町の方にかけて敷地があったそうです。
京都では「彦根藩邸」が関わった歴史上の大きな出来事はありませんでした。なので現代でも「彦根藩邸跡」が取り上げられることは滅多とありませんね。木屋町界隈なので大きな開発が行われることもないでしょうから、将来にもわたってこの石碑もここにずっと存在していくものと思われます。いつか、歴史上の発見があって、この石碑が話題となることがあるでしょうかねぇ。
アクセス
- 京都市バス「河原町三条」下車、徒5歩分