曇華院跡 中京郵便局案内板より

都の中心は火事が多かった

京都市の中心部を走る三条通りには、明治以降のものですが、歴史的な建物が残っています。そんな建物の陰に隠れた旧跡を紹介します。

三条通りでひときわ目立つのは、現在の「中京郵便局」である旧「京都郵便電信局」です。ちょうど東洞院三条に建っています。昔々この辺りにはお寺がありました。

京都郵便電信局 No5

これが現在は「中京郵便局」として使われている旧「京都郵便電信局」です。車の停まっているのが「東洞院(ひがしのとういん)通り」で、右の方から来てるのが「三条通り」です。

曇華院跡 No2

その北側には、建物続きで「中京郵便局」が続いています。

曇華院跡 No3

その「中京郵便局」の所に説明書きが掲げられています。

曇華院跡 No4

ちょっと見にくいですが「平安京東洞院大路・曇華院跡」と書かれています。

曇華院跡 No5

この案内書きによりますと、平安時代にはここに「以仁王」の「高倉宮」があり、その後、南北朝時代から江戸時代の「蛤御門の変」まで「通玄寺(つうげんじ)」、「曇華院(どんげいん)」がありました。「高倉宮」というのは、当時はここが「三条高倉」に当たるところだったからです。

「高倉宮」の石碑がもう少し北の所に立ってます。以前に紹介しましたので興味ある方は読んでみてください。

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南北朝時代、北朝での康暦2年(1380年)、「智泉聖通(智泉尼)」を開祖とした「通玄寺」の仏殿起工式が行われたと記録に残っているそうです。5年後、「智泉尼」は「通玄寺」内に庵室「曇華庵」を建てて隠居しました。「智泉聖通」という人は「順徳天皇」の皇子「四辻宮善統親王」の孫に当たるとも言われ、「足利義満」の母である「紀良子」を生んだ人です。つまり、室町幕府第3代将軍「足利義満」の祖母に当たる人です。この『四辻宮善統親王の孫に当たるとも言われ』たことから「足利義満」の皇胤説が生まれています。

この「通玄寺」ですが、臨済宗の「瑞雲山通玄寺」というお寺で、けっこうな大寺院だったようです。当時「尼寺五山」の一つに数えられていたのですが、室町時代の「応仁・文明の乱」で焼失してしまい、「曇華院」に統一されて再興されました。その後も焼失しては再興が繰り返されたのですが、江戸時代、元治元年(1864年)に起きた「蛤御門の変(禁門の変)」で焼失した以降は再興はされず、明治4年(1871年)に嵯峨に移されました。嵯峨には現在でも「曇華院」があります。「中京郵便局」の北側一帯は「曇華院前町」という町名が残っています。

現在歴史的な建物として保存されているところでも、掘り返してみると、その過去には違った史跡や旧跡が現れてくるというのが京都の町の面白さでもあります。

アクセス

  • 京都市バス「烏丸御池」下車、徒歩4分

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