高瀬川を歩く
先日、「本間精一郎遭難之地」の石票を紹介しましたね。
今日はその近所ですよ。ここもあんまり人気がなさそうな史跡なんですけど、せっかくですから紹介しましょう。
訪れるのは「七之舟入址」です。もちろん、高瀬川の荷物おろしの場所であった「舟入」です。江戸時代に「舟入」は9か所作られています。上(かみ)の方から一、二、...九という順番ですね。
場所は「本間精一郎遭難之地」の北側にある「元・立誠小学校」の北側です。通りで言うと木屋町通りと「蛸薬師(たこやくし)通り」の交差点です。
木屋町通りを上がってくると、高瀬川には蛸薬師通りの端があります。
もう少し上がると、この石票でここが「七之舟入址」であることが分かります。
石票の横に平成二十一年とありますので、新しい石票ですね。
で、「高瀬川」にはそれらしく「高瀬舟」が浮かべられています。
高瀬川七之舟入址
この立札の北側に七之舟入があったといわれている。
舟入とは、荷物の積み下ろしや船の方向転換を行う場所で、七之舟入は、二条から四条の間に九箇所作られたうちの一つである。現存するのは一之舟入のみであり、他の舟入は、七之舟入を含めて全て埋め立てられている。
古文書等によれば、寛永~元禄年間のうち凡そ五十年の間に使用の記録があり、寛永年間には、間口七件、奥行三十二間の広さがあった。
高瀬川は角倉了以が開削した物流用の運河で、慶長十六年(一六一一年)に一之舟入付近を起点として着工され、同十九年(一六一四年)に伏見まで開通した。水深が浅いことから。「高瀬舟」と呼ばれる船底の平らな船が使われ、ここから川の名前が付けられた。
盛時には百数十艘が上下して伏見を通じて大阪などの物資を運び入れ、京都の経済に重要な役割を果たした。木屋町筋には「木屋町」という町名の由来となった材木屋をはじめ、多くの問屋が立ち並んでにぎわった。
明治以降、高瀬川は次第に舟運の目的を失い、大正九年(一九二○年)に舟運は廃止されたが、清らかな水と桜や柳が美しい情緒あふれる景観が、多くの市民や観光客を楽しませている。京都市
と、駒札が立ってます。
一応、当時の高瀬舟の様子を描いた図面や写真なども飾られているのですが...
この水没した「高瀬舟」はだめですよね。模型か何かなのでしょうけど、情緒もへったくれもあったもんじゃない。多分、お金の出どころがないので維持していくのが難しいのでしょうけど、観光地でこの失態はさすがに見ていて痛々しいですよ。
「舟入」は時代の遺物となって埋め立てられてしまったは仕方ないにしても、当時をしのばせるのならば、もう少し良い展示方法は考えられなかったのでしょうか。
アクセス
- 京都市バス「河原町三条」下車、徒歩12分