涼しさを感じさせる神社
今回は「高松神明社(しんめいしゃ)」を紹介します。
場所は「姉小路通り」で「新町通り」と「釜座(かまんざ)通り」の間のところです。
観光客があまり訪れない場所で、もっぱら京都人ばかりが訪れるようなところです。
それに対して、御池通りの反対側に位置する「御金神社」はけっこう観光客で人いっぱいですね。
この辺りは、まだ昭和の雰囲気を残した建物が残っている少し懐かしさを感じさせる通りです。
道もそんなに広くはないので一方通行が多いです。
見えてきました「高松神明社」の鳥居です。住宅街にいきなり神社ですよ。なんとも京都らしい。
真っ白の鳥居です。
鳥居の右側に立つ「高松神明社」の石柱。
反対側には「此附近 高松殿址」の石柱。「高松神明社」のご由緒にはこの「高松殿」が深くかかわっています。
高松殿址
高松殿は、醍醐天皇の皇子、西宮左大臣と呼ばれた源高明(たかあきら)(九一四~九八二)の邸宅で、「拾芥抄(しゅうがいしょう)」に「姉小路北西洞院東高明親王家」と記 されている。
高明の娘、明子は、当所に住して高松殿と称され、後に藤原道長の室となった。その後、三条天皇皇子小一条院の御所ともなったが、文献では、治安元年(一〇二一)と、更に百年後の保安元年(一一二〇)に焼亡記事が見える。
院政期の久安二年(一一四六)には、鳥羽上皇の命により新造され、造営には、後に大蔵卿となった長門守源師行が当たっている。久寿二年(一一五五)には、後白河天皇が当所で即位し、保元二年(一一五七)まで内裏となり、高松内裏とも称された。
保元の乱(一一五六)の際には、崇徳上皇方の白河北殿に対して、後白河天皇の本拠地となり、源義朝や平清盛らの軍勢がここに参集して、白河の地へ攻め込んだことはあまりにも有名である。
その後、平治の乱(一一五九)に御所は焼失するが、邸内に祀られていた鎮守社高松明神は、現在も高松神明神社として残る。
ということで、もともとは「高松殿」の鎮守社として創祀されたんですね。
その駒札の下にはもう一枚説明書きが掲げられています。
「高松神明社」には「真田幸村」の念持仏が祀られているそうです。
手水鉢です。まずはお浄めを。
さてさて、お詣りをさせていただきましょうか。真っ直ぐ前が本殿です。
「高松神明社」の絵馬です。
近づくと、こじんまりとした奥ゆかしい雰囲気ですね。
なんか、張り紙がいっぱいありますよ。
受付にいえば、由緒書きがいただけるそうです。
「天照皇大神」が祀られています。
開運、厄除けの信仰があります。
奥の方にご本殿が見えます。
「高松内裏」が置かれたり、保元の乱では「源義朝」や「平清盛」らがここに終結して、白河北殿へ攻め込んだりと、歴史的には有名場所であり、その高松殿は火災で消失してしまいましたが、鎮守社の「高松神明社」は、住宅街となったこの地に現代まで続いています。すごいじゃないですか。
さて、今度は境内の「神明地蔵尊」です。
こちらです。
「真田幸村」の念持仏だそうです。
台座をさすってその手で子供さんの頭をなでると、真田幸村の智慧をいただけます。
「神明地蔵尊」の縁起が詳しく書かれています。
こちらは簡略化されて書かれていますね。紀州九度山の「伽羅陀山」にある「真言宗善名称院真田庵」から拝領しているとの事です。
境内には「水琴窟(すいきんくつ)」もあります。
一瞬何かわからないでしょ。下の方に穴がありますよね。
ここです。ここから水滴がポトポトと落ちていくのですが、この下に瓶をさかさまにしたような形の音響装置があって、底にたまった水に水滴が跳ねる音が反響してお琴を弾くような音色を聞かせてくれます。
まだ梅雨はあけないのに、ここ何日かけっこう気温が高くなってきました。セミも無き出して夏はもうすぐそこまで来ています。そんななか、エアコンも必要ですが、こんな涼しい音色が楽しめる「水琴窟」、もっとあちこちにあってもいいのにね。
アクセス
- 京都市バス「新町御池」下車、徒歩5分