平常運転
お盆も終わり、日常が戻ってきました。
つーても、わしの職場はお盆関係なしのカレンダー通り。毎年、いつもより通勤の電車やバスが空いててラッキー!程度の恩恵です。今年も同様、通勤らくやなぁ、で終わってしまいました。
で、京都はお盆前から涼しめです。湿度は高いのですが最高気温が38℃になるようなこともなく、曇りや雨が続いて、夏は終わってしまったような様相を呈してます。暑いのも寒いのも大嫌いな私ですが、そんな私でも、なんか尻切れトンボ感いっぱいで不完全燃焼。コロナでプールもあまり入れない子供たちなんかは輪をかけて不完全燃焼なのではないでしょうか。
んで、どうも20日(金)から、京都は再々の「緊急事態宣言」が発出されそうです。今でも「マン防」で不要不急の外出は自粛中なので、Blogネタをあさりに京都市内をウロウロとすることははばかられるのですが、このままでは、長期にわたってネタの枯渇に見舞われるやもしれません。(今んところ、以前に撮った写真なら2,3年は毎日何かネタにするような題材があるので心配はないのですが...)やっぱり記事の内容は、季節に合った新鮮なものの方が良いですしね。
そんなこんなで、今日は私の好きな「平安宮」の記事を。
ここがスタート地点?
「平安宮」とは言わずと知れた「平安時代」に朝廷が置かれた、つまり帝(みかど)様が「おはした」ところです。1000年から1200年ぐらい前の時代なので、当然当時の建物などは残っていません。地面を掘り返すと「跡」が出てくる程度。加えてその「跡」の上には、現在、庶民の住宅が一寸の隙間もなく乗っかってる状態。なかなか調査が進まないのも仕方がないことですね。
でも、そんな住宅街を「おお、ここは昔、朝堂院があったとこや。」「ここは紫宸殿やったとこや。」と地図を見ながら住宅街をうろつくのも楽しいものです。ほんでもって、要所要所には石柱や案内板が設けられていて、素人でも場所を間違わずに確認できるので、やかなか楽しめます。
案内板の多くは、その地点のことを書いているのですが、「平安宮内裏跡」全体のことを書いた案内板を見つけたので紹介します。この案内板の前の道(下立売通)は何回も歩いているのですが、こんな案内板があるとは気づきませんでしたよ。
場所は、下立売通の智恵光院からちょっと西に歩いたところです。通りの南側、少し中に入ったところにあります。
建物の壁にくっついて立っているので、いつも通りを西に向かって歩く私にとっては完全な死角でした。
けっこう大きくて立派な案内板です。
平安宮内裏跡
延暦一三年(七九四)の平安京遷都とともに造営された内裏は、天皇や后たちの居住空間で平安宮(大内裏)の中心的な施設。その構造は、陽明文庫蔵の「内裏図」などによると、外郭築地と内郭廻廊の二重構造で厳重に区画され、内郭が東西五七丈(約一七一m)、南北七二丈(約二一六m)、外郭築地は東西七三丈(約二一九m)、南北一〇〇丈(約三〇〇m)の規模であった。
内郭の南辺には紫宸殿・仁寿殿・承香殿・清涼殿などハレの場があり、北辺には弘徽殿・飛香舎(藤壺)・淑景舎(桐壺)といった七殿五舎からなる後宮が存在し、それぞれの建物は廻廊や透渡廊で繋がり、雅な宮廷生活が繰り広げられ、『源氏物語』の中心舞台であった。
初焼亡は村上天皇の天徳四年(九六〇)であるが、里内裏が用いられたのは一六年後の二度目の火事の時であり、歴史から姿を消すのは安貞元年(一二二七)の焼亡である。
付近の発掘調査で確認されている主な遺構は、西側内郭回廊基壇西、東面跡と雨落溝跡、承明門跡、外郭西面築地跡、蔵人町屋東・南雨落溝跡、蘭林坊の溝跡などがあり、古絵図や発掘調査により、内裏内の主要な建物の位置は、ほぼ地形図上に落とすことが可能となっている。内裏跡では、内郭回廊跡のほか主要な殿舎跡に説明板や石柱が設けられている。
平成二〇年三月 京都市
と、「平安宮」全体のことを書いてますね。散策のスタート地点はここ、みたいな感じの案内板です。
この周囲一帯に案内板が設置されています。
これを見て回るだけでも楽しそうです。この地域は「平安宮」だけではなくて「太閤秀吉」の聚楽第があったところでもあるので、1度回るだけで2度おいしい地域でもあります。
ただし、住宅街なのであまりおおっぴらに個人宅などの写真を撮ると迷惑行為になります。節度ある散策にしてください。
で、案内板の反対側には大きな池。実はこの石畳の地は山中油さんの敷地。
で、大きなコイも泳いでいるというなかなか優雅な所です。
さて、少し前に「紫宸殿跡」「承明門跡」を紹介しましたので、それ以外のところをいくつか紹介していきましょう。
アクセス
- 京都市バス「丸太町智恵光院」下車、徒歩7分