聖護院の森
熊野神社のある、丸太町通りと東山通り(東大路)との交差点付近には「聖護院の森」と呼ばれる大きな森がありました。市電の軌道敷の拡張などにより、現在はほぼ残っていませんが、熊野神社の境内や、近くの学校などには大きな木が残っています。
熊野神社はそんな静かな環境の中で、弘仁2年(811年)、修験道者で阿闍梨の日圓上人が、紀州熊野三山の祭神である熊野権現を勧請したのが始まりだそうです。
京都三熊野(当社・新熊野・若王子社)の最古社で、縁結び・安産・病気平癒・鎮火のご利益があります。
「熊野神社」は東山丸太町の角にあります。
正面の鳥居です。
立派な石碑があります。
「敬神生活の綱領」と題して、神道を実践する人の心構えが書かれています。
ご由緒書きの駒札です。
熊野権現といえば「八咫烏(やたがらす)」ですね。
お社の屋根にも「八咫烏」の瓦が見えます。「八咫烏」は日本神話において、神武天皇を熊野国から大和の橿原まで案内したとされており熊野権現の神使として信仰されています。三本足の烏です。
手水舎でお清めしてお詣りします。
本殿です。天気が良いので写真もきれいです。
本殿正面です。
日の光がさして、厳かな雰囲気を醸し出しています。
光り輝いています。
本殿の東に続く「祖霊殿」です。
本堂の周りには「熊野神社少年勤王隊」として、古くからの写真が奉納されています。
境内末社
境内の西側には、末社が鎮座しています。
お稲荷さんです。
「金比羅大神」、「豊富稲荷大神」が祀られています。
朱がとってもきれいですね。
お隣には「須賀大神」、「春日大神」、「神倉大神」が祀られています。
屋根が年代の古さを感じさせます。
京都のお土産 八ッ橋 発祥の地
京都のお土産といえば、やっぱり外せないのが「八ッ橋」ですね。「八ッ橋」は、お土産として有名なのですが、なぜか京都民はめったに食べないです。まぁ、東京民が「東京バナナ」ばっかり食べてないのと同じなんでしょうね。
この「熊野神社」の境内には「八ッ橋発祥之地」の石碑があります。
「八ッ橋」といえば、たいていの方は「生八ッ橋」を思い浮かべるのでしょうが、もともとは焼き菓子でした。
江戸中期にあたる元禄2年(1689年)に、金戒光明寺(くろ谷さん)参道の茶店にて供されたものが始まりとされています。
「八ッ橋」という名前は、江戸時代前期の、お箏の名手であり作曲家でもあった「八橋検校(やつはし けんぎょう)」にちなみます。筑紫流箏曲を学んだ検校は、この箏曲を基に現在の日本の箏の基礎を作り上げた人です。「六段の調べ」など数々の名作を生み出しました。
検校は没後、金戒光明寺にある常光院(八はしでら)に葬られました。墓参に常光院を訪れる人は絶えることがありませんでした。 そこで検校没後4年後の元禄2年、くろ谷参道であった聖護院の森の茶店にて、琴に似せた干菓子を「八ッ橋」と名付けて販売し始めました。 これが、最初の「八ッ橋」の誕生です。この茶店は現在の「聖護院八ッ橋総本店」の場所にあたります。
検校の葬られた「常光院」です。
「筝曲開祖 八はしでら」とあります。
「八ッ橋」は、米粉、砂糖、ニッキ(シナモン)を混ぜて蒸し、薄く伸ばした生地を焼き上げた堅焼き煎餅で、お箏の形を模しており、細長い瓦のような形です。
また、蒸し終えて薄く伸ばした生地をそのまま一定サイズに切り出したものを「生八ッ橋」と呼びます。1960年代に発売を開始しました。純粋に生地だけのものと、正方形の生地を二つ折りにしてアンコやチョコレートを包んだものがあります。
お土産には、やはり「生八ッ橋」でいろいろなものを包んだ、味の楽しめる八ッ橋のセットが人気のようです。
さて、京都の代表的なお土産となった「八ッ橋」ですが、「八ッ橋」をここまで有名にしたのは西尾家の十二代目・西尾為治氏です。
西尾氏は、元禄期からの「八ッ橋」の製法を基調に改良を重ねて、「八ッ橋」を京の銘菓に育て「中興の祖」といわれました。国内の賞を初め、明治時代から昭和初期にかけて「八ッ橋」を世界の博覧会に出品し、数え切れない栄冠を勝ち取りました。特に明治22年(1889年)のパリ万博では銀賞を受賞しています。日本だけではなく、「八ッ橋」は海を越えて評判を得、世界に通用する銘菓となりました。
「西尾為治」氏の銅像です。信心深い方だったそうです。
「梅原猛」の揮毫ですね。
「熊野神社」の近所には、「八ッ橋」のお店がたくさんありますので、お店周りをしても楽しいかもしれません。お店によって、味や風味にも差があるので、ご自分にあった「八ッ橋」を探してみてくださいね。
京都では、古くから節分の日に熊野神社の「火の用心のお札」を受ける風習があるので、京都の町家などを訪れる機会があったら台所などをよく見てくださいね。「熊野神社」のお札はよく見かけます。
アクセス
- 京都市バス「熊野神社前」下車、すぐ