古代に栄えた出雲郷
今日は「上神御霊神社(かみごりょうじんじゃ)」を紹介します。
「上御霊神社」は京都市上京区上御霊竪町というところにあります。京都市営地下鉄烏丸線の「鞍馬口」駅の近くです。
このあたりは、平安京の前から豪族の「出雲氏」が住んでいた場所で、山城国愛宕(おたぎ)郡出雲郷と呼ばれてました。そこにあった「出雲寺」が、「上出雲寺」と「下出雲寺」に分かれ、各々が「上御霊神社」、「下御霊神社」となります。
その「上御霊神社」を一般に「御霊神社」と呼んでます。「下御霊神社」は京都市中京区の寺町通り丸太町下るに現在もあります。
「上御霊神社」は、「八所御霊」とも呼ばれていて、平安遷都以来の王城守護の神様として祀られています。
「上御霊前通り」の「御霊神社」の石碑です。立派であるのに時計まで埋め込まれています。
「寺町通り」にあった、仁丹の広告の入った住所表示板。最近は仁丹のものが減ってしまいましたね。「区」の字も、「霊」の字も旧字体で味があります。
やってきました。「上御霊神社」の前です。入口は西に向かっています。
ご由緒書きの駒札です。
とっても立派な楼門です。
「手水舎」です。
「拝殿」です。
お正月ですね。「拝殿」にはいけばながきれいに飾られていて、お正月気分満点です。
「本殿」です。参詣の人がちらほらいらっしゃいます。
「本殿」の正面です。訪問した時には、中で御祈祷が行われていました。
こちらは「南門」です。参詣の方はこの門から入って車を止められます。でも、あまり広い駐車場ではないので、できれば公共交通機関をご利用くださいね。
「南門」の「御神燈」です。
「南門」の手水舎です。
花御所八幡宮と末社
境内には、摂社や末社がたくさんあります。
江戸時代に寺町鞍馬口(上善寺の北側)にあった「五所八幡宮」あるいは 「花御所八幡宮」と呼ばれた神社です。ここは明治維新の時に取り壊されて上御霊神社の境内に移されました。
一方、烏丸今出川上るに「御所八幡町」とい う町名があります。これは室町幕府(花の御所)の中にあった八幡宮の跡といわれ、 この神社が「五所八幡宮」になったという言い伝えもあります。花の御所にあった八幡宮の跡を示す碑が、上御霊神社の正面にあります。
その他にも「御所八幡宮」というのがあって、足利尊氏が邸内に勧請した「御所八幡宮」が中京区御池通り高倉南東角にあります。
そのお隣から、摂社末社がずらっと並んでいます。
たくさんの神社です。
「厳島神社」です。
神明神社
「上御霊神社」の本殿の後ろになりますが、「神明神社」があります。
境内の東の端になります。
しっかりとした石碑が建てられています。
「神明神社」の本殿です。ご由緒書きなどがないのでどのような神社か私にはわかりかねます。
「神明神社」の北隣にはとても大きな燈篭があります。こちらも不明です。
歌碑の数々
境内にはいろいろなかたの歌碑や句碑があります。
文化勲章を受章された国語学者の「新村出(しんむらいずる)」先生の歌碑です。満80歳の誕生日に参拝の折に献詠されたものです。
まだ、そんなに古くないので、字が読めますね。
上御霊のみやしろに詣でてよめる
千早振 神のめぐみ深くして 八十ぢに満つる 幸を得にけり
昭和31年10月4日 新村出
そういえば広辞苑の第七版が出ましたね。この歌碑の「新村出」先生は初代「広辞苑」の編者です。
こちらは、この石の表面だけでは解読不可能です。
国学者、富士谷御杖(ふじたにみつえ)の詞碑です。
底津磐根に宮はしらふと 志り高天原に氷木たかしるは たゞかみつ世の宮づくりに あらず いでかしこきたくみの 神のたまはる斉砥は かしてむ 手斧とくせよ てをのとくせよ
文政五年(1822年)に詠まれた歌で、ここの本社殿の修復造営時の工事を励ます歌です。
こちらも「芭蕉」の字は読めましたが、他はわかりません。
「芭蕉の句碑」石碑は慶応元年の建立。
半日は神をともにや年忘れ
と詠まれています。
元禄3年(1690年)に松尾芭蕉が門人の向井去来らとここを参詣し、半日をくつろいだ時の句碑です。ここを讃える年忘れ歌仙が奉納されています。
「清明心の像」と書かれています。他のものとはちょっと異質なオブジェです。壺の右下から子供が飛び出しているのが見えるでしょうか。
昭和54年(1979年)の国際児童年にあたり、生命の尊重と子供達の健やかな成長を祈り建立されたものだそうです。
中国宋代の学者司馬温公の有名な故事「司馬温公の甕(かめ)割り」を表しています。この故事は、司馬温公が幼少の頃、友達と遊んでいる時に、一人の友達が誤って父親が大事にしている大きな水甕に落ちておぼれてしまったのを、人命が第一と考えて貴重な水甕を割って友達を助けたというお話です。人間の命の大切さを訴え、幼い子供達の健やかな成長を願うもので、「清く、明るく、直き正しき誠の心」から「清明心の像」と呼ばれます。
応仁の乱勃発地
今回の訪問での目的の一つに、応仁の乱があります。
「応仁の乱勃発地」の石碑。
「応仁の乱勃発の地」の駒札。応仁元年(1467年)、「畠山政長(まさなが)」は御霊神社の森に布陣します。これを「畠山義就(よしなり)」の軍が攻め「御霊合戦」が始まります。畠山政長は神社拝殿に火をかけて逃走しました。これ以後、戦乱は応仁・文明の乱(1467-1477)に拡大していきます。まさに応仁の乱が勃発したその場所です。上御霊神社は、文明10年(1478年)に焼失してしまい、その後、足利氏により再建されました。
新しそうな石碑が立っています。
「御霊神社」は「御靈神社」と書くようですね。この発端の「御霊合戦」から約11年間にわたる「応仁・文明の乱」によって、室町幕府はより一層弱体化し、京都の町は荒廃してしまいます。
境内西の「内構町」には、「細川勝元」邸があり、東軍の陣が敷かれました。陣内に構えたとして「内構町」の町名の由来になっています。
菊の御門がまぶしいです。
福寿稲荷神社
境内の南東の端に「福寿稲荷神社」があります。
昔は水が流れていたであろう川の上を橋が渡っています。
本殿のある場所は少し小高くなっています。
「本殿」前に来ました。
こじんまりとはしていますが、塗も新しくてきれいです。
「福徳円満」をお願いしましょう。
御祭神とご由緒が書かれています。お稲荷さんなので、「五穀豊穣」「生業繁栄」の神様です。
今出川のこと
昔、賀茂川から水を引いていた「今出川」がありました。「御霊神社」と「相国寺」を通り、「寺町通り」を下って流れている川でした。昔は「寺町通り」という名前ではなくて「東京極通り」と言っていたので、「京極川」とも呼ばれていました。
「上御霊神社」の中に、水は流れていない川の跡があります。今出川から取っていた水流なのか、今出川そのものなのかはわかりません。「上御霊神社」の南西角の方に残っている堀は「今出川」の名残だといわれています。
水が流れていると風流で良いのですけどね。
「今出川」は大正6年に京都市電が通ることにより、地下水路となりなくなってしまいましたが、「今出川通り」の名前は現在でも残っています。
「上御霊神社」は烏丸通などから離れているので、市街地にあっても静かです。ゆっくりと、平安遷都前の古代を思い浮かべたり、応仁の乱の戦乱による京都の荒廃を考えたり、歴史の流れを感じられる神社です。
アクセス
- 京都市営地下鉄「鞍馬口」下車、徒歩5分