梅田雲浜邸址 さかさまとちがうんか?

大河ドラマは また「幕末」...

梅田雲浜(うめだ うんぴん)は、江戸時代末期(幕末)の儒学者です。若狭国小浜藩の出身で、藩の儒学者・山口菅山から山崎闇斎学を学んびました。

雲浜は、祖父の家系である梅田氏を継ぎ、近江国大津に湖南塾を開きます。天保14年(1843年)には上京して小浜藩の塾である「望楠軒」の講師となります。しかし、嘉永5年(1852年)に藩主・酒井忠義に海防政策を説き建言したのが怒りに触れて、藩籍を剥奪されてしまいました。浪人となった雲浜ですが、それでも諸国を遊説し、尊王攘夷派の指導者となっていきます。嘉永6年(1853年)、アメリカのペリーが来航すると不平等条約反対と外国人排斥による攘夷運動を訴えて尊皇攘夷を求める志士たちの先鋒となり、幕政を激しく批判します。

このことによって、大老・井伊直弼による安政の大獄で摘発され、2人目の逮捕者となってしまいました。捕縛後、江戸に送られますが、取調べでも、箒尻(ほうきじり)で何度も打たれる拷問においても何一つ口を割らず、安政6年(1859年)に獄中で病死しました。享年45才でした。

梅田雲浜は妻と二人の子供がいました。妻の信子は師の上原立斎の娘で、立斎が雲浜の人柄を見込んで、18歳の春に雲浜に嫁がせています。信子はそれ以来11年間、赤貧の生活の中で、雲浜を支え子供を育てました。嘉永7年(1854年)にプチャーチンを乗せたロシア軍艦が突如大坂湾に現れました。雲浜は「十津川郷士」と共に、ロシア艦襲撃に赴こうとします。当時信子は結核で病床にありましたが、それでも振り切って雲浜は大阪に行きます。信子の病はさらに重くなり、翌年29歳の若さで亡くなってしまいます。雲浜は、信子の並々ならぬ生前の苦労を思って、それ以後信子の位牌を常に懐に携帯していたそうです。

 京都のど真ん中

地下鉄烏丸線と東西線が交わる、烏丸御池はまさに京都のど真ん中。

その烏丸御池交差点からすぐのところに、雲浜が住んだ「梅田雲浜邸址」はあります。

梅田雲浜邸址 No2

このビルの前なんですけど、画像でもお判りでしょうか。歩道上の一番車道側に立ってます。

梅田雲浜邸址 No3

歩行の邪魔にならないよう、控えめに立ってるのですが...

梅田雲浜邸址 No4

歩道側から見るとこの通り。何の石碑かわかりません。

梅田雲浜邸址 No5

車道側から見るとこの通り。

これって、車から見るためなの?

というか、もしかして、車道拡幅のために、建物が今の位置まで後退して、以前は建物だったところが歩道になったのでしょうか。石碑は大正時代に作られたものですし。

「梅田雲浜」は、京都市内の「葉山観音」や「大福寺」にも住んでいました。NHKの大河ドラマでは、幕末ものが多くて、「梅田雲浜」も登場してます。雲浜の墓は、全国にあるのですが、京都では東山区の「安祥院」にあります。「安祥院」近くにある「京都霊山護国神社」には雲浜の碑も建てられています。

辞世の歌

君が代を おもふ心の 一筋に 我が身ありとも 思はざりけり

梅田雲浜

幕末を想って、雲浜の史跡巡りもいいですね。

アクセス

  • 京都市バス「烏丸御池」下車、徒歩1分
  • 京都市営地下鉄「烏丸御池」下車、徒歩1分

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