三条坊門第
烏丸御池の辺りは、京都ではオフィス街として知られていますが、室町幕府を開いた「足利尊氏」の邸宅も烏丸御池の近くにありました。
「足利尊氏」は、この「三条坊門第」で政務を執り、尊氏の没後は「等持寺」というお寺になってます。「等持寺」は足利氏の菩提寺として崇敬を集めましたが、応仁・文明の乱(1467~77年)以降は衰退し,別院であった等持院(京都市北区)に合併されました。
「足利尊氏邸・等持寺趾」は「高倉通り」の御池を上がったところにあります。当時、とても大きな邸宅であったそうで、二条大路、三条坊門小路(御池通)、万里小路(柳馬場通)、高倉小路に囲まれた南北約250m、東西約120mの土地を占めていたとのことです。縦横掛け算すると、3万平方メートルになりますね。
では、行ってみます。
ビルの建っている敷地の壁沿いでちょっと分りづらかったです。
説明書きがあります。
戦に明け暮れた「足利尊氏」ですが、暦応元年(1338年)、北朝・光明天皇より征夷大将軍に任じられます。この頃、尊氏が住んでいたのが「二条高倉第」と呼ばれる邸宅で、万里小路、高倉小路、二条大路、押小路のやや北の約一町を占めていました。「三条坊門第」には弟の足利直義が住んでいたのですが、政治で対立した尊氏は直義を暗殺してしまいます。いやはや武家とは恐ろしいものですね。尊氏は、直義が自邸北側に「古先印元」を開山に迎えて創建した「持仏堂・等持寺」を、新たに「無窓礎石」を開山とする足利家菩提寺に改めます。勝てば官軍で、やりたい放題ですね。
そんな尊氏が創設した室町幕府ですが、「応仁の乱」以降は衰退して京都の町が荒廃してしまうのは歴史の知るところです。「花御所(室町第)」ができる前の室町幕府の本拠地跡を訪れてみてください。
アクセス
- 京都市バス「堺町御池」下車、徒歩1分