藤(ふじ)式部
源氏物語の作者と考えられている紫式部。清少納言と比較されますが、才女であったにもかかわらず、あまり知的な側面をひけらさなかった態度に好感が持てます。
めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに 雲がくれにし 夜半の月かな
小倉百人一首
とても有名な歌です。私は月を見るのが好きで、涼しい夜には時の過行くのも忘れて、ぼーっと見とれていることがあります。そんな時には、ふとこの歌を思い出します。
藤式部と呼ばれていましたが、「源氏物語」の紫の上に因んで、紫式部と呼ばれるようになりました。紫式部を紹介する英文に、紫式部のことを「Lady Murasaki」と綴っていたのを見てぴったりの表現だと感心したことがあります。
紫式部に関係する名所や史跡はいろいろあります。蘆山寺、大原野神社や石山寺が良く取り上げられます。そのあたりはガイドブックに譲るとして、私は紫式部の眠る墓所を紹介します。
紫式部墓所
場所は堀川通の北大路を少し下がったところです。堀川通りの西側の並びです。
入り口には石碑がたてられており、こぎれいに掃除が行き届いています。
中に入るとすぐに墓所です。
確かに紫式部墓となってます。
ここが本当に紫式部の墓なのでしょうか。なんせ、平安中期の人で、1000年がたってます。
ここは紫式部が晩年を過したとされる雲林院百毫院のちょうど南側です。ここに紫式部の墓があるという文献は、源氏物語の注釈書「河海抄」に、「式部墓所在雲林院白毫院南 小野篁墓の西なり」と書かれており、「花鳥余情」(一条兼良)、「扶桑京華志」や「山城名跡巡行志」にも記されています。なので、ここが紫式部の墓であろちうことは非常に信ぴょう性が高いです。
小野篁(おののたかむら)墓所
実は、紫式部と一緒に眠っているのが小野篁です。
小野篁って誰?
「昼は朝廷に仕え、夜ごと井戸を通って冥土に降り、閻魔大王のもとで閻魔庁第二冥官として、裁判の補佐をしていた。」という伝説を持つ人。
実際は、平安時代初期の公卿、文人で遣唐副使に任命されるも出発を拒否したため、嵯峨上皇により隠岐に配流されています。その後、京に戻り従四位上までになりますが病気で官職を辞めています。
漢詩文に秀でており、書においても名をはせました。この人も百人一首に選ばれています。
わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣舟
小倉百人一首
小野篁卿墓と石碑があります。
こちらが墓所です。
左が紫式部、右が小野篁の墓所です。
お墓の方から入り口の堀川を見ると、明るい光の中に通りの喧騒がぼぉっと見えています。なにか、あの世から現世をみているような錯覚になりました。2人はあの世から、都の1000年の移り変わりを見てるんでしょうね。
最近は見かけませんが、2000円札の肖像画は紫式部です。現代のお札にまでなっている、女流作家 Lady Murasaki のお墓にお参りしてみてください。そして1000年前のラブロマンス「源氏物語」を読んでみてはいかがでしょうか。
アクセス
- 京都市バス「北大路堀川」下車、徒歩3分