「羅城門」と「羅生門」
先日、京都市南区まで行きましたので、「羅城門跡」を見てきました。京都市バスに「羅城門」というバス停があるので、その付近になにがしかの史跡を示すものがあるだろうと、あまり深く考えずに現地に行きましたよ。
例によってスマホは持ってないので、京都駅の方から南西に歩きます。
「羅城門跡」は地図で見ると公園と重なっているので、公園を目指していきました。裏道をごそごそと歩いていくと、ポンと公園の前に出ましたよ。
と、発見したのは「唐橋羅城門公園」です。どうもそのもののようですね。裏道から行った割には、今回は間違うこともなく一発で発見しました。でも公園の裏口なんですよね。
「唐橋」というのは「羅城門」の前に架かっていた橋の名前だそうです。
どこにでもあるような、あまり広くはない児童公園です。見ての通り、公園の真ん中にど~んと立ってます、「羅城門遺址」の石票。
なんで、策を作るときに石票が真ん中に来るようにしなかったのでしょうか? なんかずれてて気持ち悪いです。
ここが京の都の内と外を分ける門の跡なんですね。朱雀大路の南端に当たる門なので、京都の正門、つまり玄関口だったわけです。
逆光で見にくいのですが「明治二十八年三月」と彫られています。けっこう古くからあるんですね。
案内書きもありました。「羅城門跡」なのですけど、源氏物語ゆかりの地として紹介されています。「羅城門」は弘仁7年(816年)8月16日の夜に大風で倒壊した記述が残っているほか、その後に再建された門も天元3年(980年)7月9日の暴風雨で倒壊してしまい、それ以後は再建計画が浮上するのですが実際に再建されることはなかったそうです。倒壊する前には相当荒廃していたようで、上層階では死者が捨てられていたという記述も「今昔物語集」に残っています。これが芥川龍之介の「羅生門」のもとになったんですね。「小右記」によると、11世紀前半頃に「藤原道長」が法成寺建立に際して羅城門の礎石を持ち帰ったとのことで、そのころには礎石が残っているぐらいになってしまっていたのでしょう。しかし道長もやりますね。まんま泥棒じゃないですか。
「羅城」というのは、都を取り囲む城壁で「羅城門」はその城壁の出入り口でした。中国の古代都市では、都市の周りを「羅城」がぐるっと一周を取り囲んでいたのですが、日本ではぐるっと一周取り囲むということがあまりなく、平安京においても「羅城門」はここ一か所だけだったようです。城壁が囲んでいれば「羅城門」は複数ヶ所あったことでしょう。なので平安京において「羅城門」は都の正面を装飾するための建築であって、外国使臣の入京が途絶した後にはその必要性がなくなってしまい荒廃したのだと考えられています。
九条通り側の入り口にはすぐにわかるように大きな字で示されていました。こっちから来ると間違うことはないでしょう。
芥川龍之介の「羅生門」の題材となった「羅城門跡」、機会があれば訪れてみてください。
アクセス
- 京都市バス「羅城門」下車、すぐ