京都駅の南、平安京の玄関口
以前に「矢取地蔵尊」のことを書きましたが、その時に少し触れた「西寺」のことを書きましょう。
「西寺」は「にしでら」ではなくて「さいじ」です。「東寺(とうじ)」と対になるお寺です。よく「東寺」を話題にすると、「東寺」があるんやったら「西寺」もあるんか?と聞かれますが、まさにその通り。あったんですよ。過去形なのが悲しいですけど。
「東寺」は現在でも五重塔や金堂をはじめ、いろいろな建物が残っているのですが、残念ながら「西寺」に方は建物はおろか、元々の基壇なども存在しません。
さて、歴史を紐解いてみますと、平安京建都の時(794年)には二大官寺として、「羅城門」の東西に「東寺」と「西寺」が建立されました。簡単に建立と言いますけど、平安京の造営って、それはもうとんでもない財力が必要になったはずです。大内裏などもそうですが、周囲の城門やいろいろな施設など、よくもまあ当時は遷都を繰り返したものだと感心します。
まだ訪れたことのない方は一度「東寺」を訪れてみてください。こんな規模の寺院をポンポンと立ててしまうのですから、恐れ入ります。
でも建立することとそれを維持することはまた別物のようですね。東寺は現代にまで残って、世界遺産になりましたが、「西寺」はけっこう早く廃れてしまって廃寺になってしまいました。
弘仁14年(823年)嵯峨天皇は東寺を「空海」に,西寺を「守敏」に下賜しています。「東寺」が真言密教の道場として発展したのに対して,「西寺」は鎮護国家の官寺として発展しました。この二人がライバル同士というか、宿敵というか、後の話では尾ひれを付けた話になるほどの対立関係で、当時の仏教界の2大勢力というほどの巨頭なのでした。ことあるごとに対立し、相手をこの世から抹殺しようとまでしてました。当時の仏教界も物騒ですね。
結局は守敏が戦いに敗れて勢いをなくし、西寺もそれにつれて廃れていきます。勢いを得た空海は下賜された高野山にも修禅の道場を広げ、一帯を宗教都市とするほどになりました。
その「空海」に対抗して勢力を広げようとした「西寺」の守敏僧都ですが、対空海戦では卑怯な手法を使ってまで勝とうとするのですが、旗色が悪く負けてばかりで、最後には呪い殺されたというような伝記もあります。(実際の生没については不詳です。)
では、京都市南区に残る「西寺」跡を訪れます。
「唐橋小学校」の北側にある、「唐橋西寺公園」です。
「唐橋」というのは「東寺」と「西寺」の真ん中にあった「羅城門」の前に架かっていた橋の名前です。
真ん中にこんもりとした丘があって、周りが公園のグランドとなっています。この丘のための公園という感じがありありと見てとれます。
「史跡西寺跡」の説明書きです。
では「丘」に登って見ましょう。
丘の上には…
礎石ですね。昭和34年(1959年)からの発掘調査により出土した金堂の礎石の一部だそうです。この時の発掘調査で金堂・廻廊・僧坊・食堂院・南大門等の遺構が確認されています。
「史蹟西寺阯」の石票です。
大正10年(1921年)3月ととても古いですよ。この時に国の史跡として指定されました。
無造作に礎石が置かれています。
腰掛によさそうな礎石です。
小高い丘なので礎石に座ってぼーっとしていると、風が心地いいです。ここの丘の辺りには講堂があったのそうです。土壇の一部だそうです。
五重塔は「唐橋小学校」の敷地内と考えられているのですが、遺跡は造成時に破壊されてしまったのか、埋まったままなのか不明だそうです。
同じ規模の寺を下賜された守敏僧都ですが、対空海戦では何をやっても報われず、失敗談ばかりが歴史に残ることとなってしまい、ちょっとかわいそうな気がします。勧善懲悪は日本人の好むストーリーですが判官贔屓も多くの日本人の心理だと思います。
「西寺」も残っていれば、「東寺」とまとめて世界遺産に登録されていたでしょう。守敏を思いながら土壇に登って、古都の風を感じてください。
アクセス
- 京都市バス「羅城門」下車、徒歩5分