死者も甦り、鬼も暗躍する魑魅魍魎の橋
一条戻橋も逸話がたくさんある場所です。平安遷都の794年に掛けられた橋で「土御門橋」と呼ばれていました。当時の都の北東(鬼門)にあたる方角で、都の端の出入り口でした。死者はこの橋を渡って洛外の墓地まで運ばれました。つまりあの世とこの世をつなぐ橋であったわけです。
その1
延喜18年(918年)、文章博士(もんじょうはかせ)の三善清行(みよしきよゆき)が危篤になります。知らせを受けた八男の浄蔵貴所(じょうぞうきしょ)は修行をしていた熊野からすぐに京に向かいます。しかし臨終には間に合わず、清行の葬列は土御門橋を通るところでした。浄蔵が父に一目合いたいと棺にすがって祈ると、法力が届き清行が雷鳴とともに一時生き返り、父子が抱き合ったとされています。それ以来、「土御門橋」は「戻橋」と呼ばれるようになりました。
浄蔵貴所は八坂の塔が傾いたときに、法力で元に戻したと言われる人です。とても霊験あらたかな人だったのでしょう。
その2
源頼光の四天王の一人であった平安中期の武士、渡辺綱(わたなべのつな)は、戻橋の東詰めで愛宕山の鬼が化けた扇折小百合(おうぎおりさゆり)に出会います。五条まで送ってほしいというので馬に乗せると、今度は都の外に送ってほしいという。どちらでもお送りしますと言った瞬間、鬼となって綱をつかみ愛宕の方へ飛ぼうとします。綱は名刀「髭切」で鬼の腕を切り落とし難を逃れました。その後、鬼が腕を取り返しに来るのですが...戻橋とは関係ないので割愛します。
その3
安倍晴明が、戻橋で蘆屋道満(あしやどうまん)に暗殺された父の保名(やすな)を呪術で蘇らせたという伝説があります。
その4
安倍晴明は十二神将(十二天将)と呼ばれる12人の式神(しきがみ)を使っていましたが、その式神を妻が怖がるので、戻橋の下に隠していました。
その5
天文13年(1544年)、細川晴元により三好長慶の家臣和田新五郎が戻橋で鋸挽き(通行人に、竹の鋸で首を一挽きずつさせる刑)にされました。
その6
天正19年(1591年)、千利休は豊臣秀吉に切腹を命じられ、その首が戻橋にさらされました。
その7
慶長2年(1597年)、豊臣秀吉によって捕らえられた宣教師とキリシタンたち(日本二十六聖人)が、一条戻橋で耳を削ぎ落とされました。
はっきり言って、とんでもなく恐ろしい橋です。いっぱい血を吸ってます。夜には一人で行けそうにありません...
現在でも嫁入り前の若い女性や縁談に関わる人は、嫁が出戻りになってはいけない、とこの橋に近づかないという習慣があります。
「戻る」ということを逆手にとって、戦時中は出征する兵士とその家族は無事に戻ってこれるように願って戻橋を渡りに来ました。
明るいうちに行こう…
気が弱いので、朝から行きます。
堀川今出川で市バスを降りて、堀川通りの東側の歩道を歩きます。すぐに元誓願寺通りがありますが、そこから東堀川通りに沿って行きます。
そうすると、すぐに堀川に降りる小道があるので、せっかくですから堀川を見ながら歩きましょう。(東堀川通りを歩いても戻橋の横に降りる階段があります)
夏はとても涼しいです。上の堀川通りの喧騒がうそのようです。
以前、堀川は下水の整備で大雨の時以外は水が流れなくなりました。この堀川に水流を取り戻そうと、琵琶湖疎水第二疎水分線から導水しています。紫明通り、堀川通りに水路を整備し、親水空間として市民の憩いの場所になるように整備が行われました。2009年通水が開始されています。
途中で元の高さに上がって、公園の中を抜けたりするので楽しいです。晴明神社を越えてもう少し行くと一条通りです。
見えてきました。一条戻橋です。
「戻橋」の銘板があります。
橋の下を通ります。十二神将はいませんか?
南側から見ると、とてもきれいな橋です。平成7年(1995年)に架け直されたものです。
少し離れてみるとよくわかりますが、短い橋です。
堀川沿いの親水空間は、南の方に続いています。
地上へ上がりました。橋の左右の欄干に「一條」「戻橋」と彫られています。
橋のたもとには、戻橋の由来が記されています。
一方通行なので「戻橋」ですけど戻れません...
戻橋の上から南方向を望みます。とても涼しそうな風景です。
安倍晴明、土御門、蘆屋道満、扇折小百合など、真実なのか伝説なのかよくわからない世界ですが、何とも言えないパワーを感じることができる「一条戻橋」。架け替える前の橋の欄干を使ったミニチュア「一条戻橋」が晴明神社の境内にあるので、併せて見ていただくとよいでしょう。
くれぐれも、若い女性はお近づきになられませんよう。また、平安京の時代から魑魅魍魎の跋扈するところなので、気を引き締めて訪れてくださいね。
アクセス
- 京都市バス「堀川今出川」下車、徒歩3分
- 京都市バス「一条戻橋・晴明神社前」下車、目の前