「円町」の「円」って?
JR嵯峨野線・円町駅がある、西ノ京円町(えんまち)あたりには、平安時代「右獄」という牢屋がありました。丸太町通りの北側だそうです。
「円」という字は、もともと「圓」という字で、口(かこい)+員(多くの人)から、人々を囲っておくところ、つまり「牢屋」を表したということです。だから「円町」って呼ばれるようになったんですね。
まだ歴史を習っていなかった頃には、「円」=「お金」だから、貨幣に関する地名が残っているんだと思っていたんですけど。 交差点の角には銀行もありましたし。
平安京の後の円町の変遷はあまり知りませんが、円町付近には江戸時代に京都の西の死刑場(御仕置場)として「西土手刑場」と呼ばれる処刑場がありました。そのときの「牢屋」は千本六角近くにあり「六角獄舎」と呼ばれていました。
当時囚人は、処刑が決まると、市中引き回しの末、春日通りの太子道にある「壺井」で末期の水をいただいて、西土手刑場で処刑されたそうです。
この「西土手」ですが、「紙屋川」の土手を表しています。
紙屋川の西土手
実は、私は幼少のころ太子道に住んでいたのでこの辺りはとても懐かしいです。私が住んでいたのは紙屋川の東側、洛中の方でした。西大路通りの太子道辺りは道が高くなっていて、紙屋川が下を流れていることは知っていましたが、幼少時には刑場があったことは知りませんでした。
丸太町通りにある紙屋川の橋の欄干です。とても古いものですが、なんとも存在感がありどっしりとした印象です。
少し南に下がると、細い橋があります。上の画像の右の部分はJR嵯峨野線の高架です。昔は単線でコンクリートの高架ではなく、土を盛った土手の上を線路が通っていました。川の土手の上にまた鉄道の土手ですね。
上の画像の橋の上から南方向を見ます。川の右手が西側で、「洛外」の方向、刑場があった方の土手です。画像の右手辺りがちょうど刑場があったところと思われます。
西大路通りから刑場趾を見ると、コンクリートブロックで遮断されています。白く角ばった二階建ての建物の向こう側が紙屋川です。このコンクリートブロックの中が「西土手刑場跡」です。
現在は円町北東にある「竹林寺」というお寺の墓地になってます。
中の墓地におじゃまして、写真を撮らせていただきました。現在は普通の墓地で、「西土手刑場」の石碑や跡は何もありません。
無縁仏や、西土手刑場で処刑された人たちを供養しています。
この墓地から、幕末の攘夷派志士「平野 国臣(ひらの くにおみ)」らの遺骨が発見されたということで、現在は竹林寺に埋葬されています。
幼少のころは、このコンクリートブロックの前をよく通ったものでした。卒塔婆が見えているので「お墓があるな。」ぐらいにしか思っていませんでした。そのころから、「中はどんなんかな。」という疑問を持ち続けていましたが、今回の訪問でちょっと解消しました。この地にも京都としての歴史があったんですね。
史跡ではありますが、一般の墓地ですのでわきまえてください。
私の小さい頃の円町は、パチンコ屋さんがいっぱいある交差点(4軒あった)で、円丸市場やおもちゃ屋さん、厚生会に銀行と、とてもにぎやかな場所でした。現在でも、ファストフード店がたくさんあり、一日中人が往来している場所です。こんな明るい場所になっていくとは、だれも思わなかったでしょうね。
アクセス
- 京都市バス「太子道」下車、徒歩1分
ふつうの墓地です。石碑や痕跡は何もありません。どうしても行きたい方は、静かに訪れてください。